現代人、特に若い世代の人々は自由を求めています。幼稚園では先生たちの間にこれを感じるし、文部科学省の教育方針にも子供の「自主性」が強調されます。人間の自由は確かに大切なことですが、キリストの教えに基づいて自由を正しく理解することが重要です。
まず私たちはどの時代に、どの国で、どの親から、どの体に、どの環境に生まれるかは自由に選ぶことができないです。そして私たちの選択にも制限があります。例えば誰でも健康でありたいと望んでいます。ただし、どうやって健康になるかは私たちの選ぶところではないのです。体は健康に機能するために栄養、睡眠、運動を要求します。その要求に応じるかどうかは人間の自由です。また誰でも幸せになりたいと望んでいます。でも体の健康と同じようにどうやってそうなるかは創造主である神が定めたところです。
キリストが真の幸せへの道を教えて下さいました。それは愛の道です。実は愛は自由の理由でも目的でもあります。主なる神が人間に自由を与えて下さったのは人間が自由に愛するためです。強制された愛はもう愛ではありません。人間に自由意志を与えて下さった主なる神はその自由意志を尊重しておられます。キリストがもたらした救いは全くの恵み、無償の愛ですが、押し付けることなく、人間の自由に訴えます。主なる神はキリストのうちに人間をご自分との親しい愛の交わりに呼んでおられますが、人間が自由に応えなければ本当の愛の交わりになれません。
キリストが愛をもたらしたのに、どうして地獄についても話しますか。結局、同じ原理です。ご自分との親しい交わりに呼んでいる主なる神の愛に自由に応えなければならないなら、それを拒む可能性もあるはずです。地獄のひどい苦しみは主の罰というより、その選択の必然的な結果です。人間には自分の存在に別の目的を与える自由がありません。私たちは主なる神との親しい愛の交わりのうちに永遠に生きるために創造されましたので、これを決定的に拒む人は、自らの存在を無意味なものにしてしまって、しかもそれはまったく自分のせいです。地獄の苦しみは何よりも主なる神のうちに生きる至福を永遠に失った絶望とそれが自分のせいである悔しさです。
現代人は自由を求めますが、一番大きな自由にほとんど気づいていません。人生においてどの道を歩むことを選んでも、最終的にあらゆる道は天国の至福に至るか、地獄の苦しみのどん底に至るか、どちらかになります。最終的に人間の望み通りになります。