主任司祭の紹介

マルコ・ターディフ神父

ようこそ大船教会へ

 

誰もが幸せになりたいと考えるでしょう。でも多くの人は、幸せになれるかどうかはその人の運に左右されると思っています。そして、それが人生だと思っています。

 

ですが、そう思いながらも、様々なことを問いかけます;

人生の意味とはなんですか。どう生きたらいいですか。どうしてこんなに苦しまなければならないですか。本物の愛は見つけられますか。人間は死んだらどうなりますか。

 

主なる神は人間を救うためにキリストを遣わされました。キリストはすべての人の心を照らして、問いかけに答えて、本当の幸せに導くために来られました。カトリック教会はキリストの恵みをできるだけ多くの人と分かち合おうとしています。

 

どうぞご遠慮なく教会に立ち寄って下さい。教会は昼間はいつでも開いています。ひとやすみやひと時のお祈りにどうぞ。キリスト教を学ぶ機会も用意しています。

 

経歴

マルコ・ターディフ(Mark Tardiff)

1954年 米国ミシガン州デトロイト市に生まれる。8人兄弟の三男で、にぎやかな家庭で育って今は甥と姪が26人いる。
1980年 宣教師としてカトリック司祭に叙階される。
1987年 初めて日本に来る。2年間の勉強を経て神奈川県の厚木教会、兵庫県の加古川教会、佐賀県の佐賀教会に勤める。
1998年 日本を離れる。先ずアメリカで後はイタリアで宣教会の仕事をする。
2013年

再び日本に来る。翌年から戸塚教会・原宿教会の主任司祭に着任。

2016年

大船教会の主任司祭に着任。


主任神父のおはなし

大船教会広報誌「おとずれ」に掲載された主任神父のお話を紹介します。(動画でのお話はこちらです)

主のご復活、おめでとうございます

イエズスのご受難とご復活は私たちの信仰の中心であり、その祝いは一年間の典礼の頂点です。聖霊降臨の後で使徒たちが出かけて福音を広めた時、何よりも主のご復活を知らせました。それこそ新しい知らせ、良い知らせ、すなわち「福音」でした。

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「あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われた」

(ヘブライ人への手紙4章15節)

 

毎年四旬節の第1主日にキリストが悪魔に誘惑された場面を読みます。聖マルコはキリストが荒れ野に導かれてサタンから誘惑を受けられた、と簡単に伝えています。悪魔(サタン)は堕落した天使で自分の傲慢を許さなかった主なる神を憎んでいます。

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日本の26聖人殉教者の祝いに当たって

2月5日に26聖人の祝いを迎えて特別なミサも捧げます。殉教者は12月に京都で逮捕されて、連行されて2ヶ月ぐらいかけて長崎までの冬の道を歩かされましたが、それは何よりもの受難でした。その長崎での殉教を目撃した人の記録はまだ残っています。

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ご降誕、おめでとうございます

主イエスがこの世に生まれたのは、ご自分が一人一人の心に生まれて、      一人一人が生まれ変わってご自分と結ばれて救われる為でした。聖母マリアはキリストがこの世に生まれる為に選ばれたように、キリストが人の心に生まれて人が生まれ変わる為にも選ばれました。その印象的な一例はグアダルーペの聖母です。

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生者と死者を裁く為に来られます

降誕祭前の季節は日本語で「待降節」と呼んでいますが、この季節の元のラテン語の呼び方は「到来」を意味しています。キリスト者は初代教会から主イエズスの到来を待ち望んで祈っています。「マラナ・タ!」(1コリント16章22節を参照。アラム語で「主よ、来て下さい」という意味)私たちもごミサの中で主の祈りを唱えてから毎回「私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」と祈ります。でもこの待ち望んでいる到来は主がこの世に生まれた到来ではなく、世の終わりに栄光を帯びて来られる到来です。待降節の典礼は、この再臨の到来を待ち望むことから始まって、次第にキリストがこの世に生まれた到来の記念(降誕祭)に移ります。

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ロザリオ:悪に立ち向かう平和の武器

11月は典礼暦の終わりの月ですが、それに因んで人生の終わりと世の終わりが典礼のテーマになっています。教会は月の初めに諸聖人と死者の日を祝って、そして主日のミサでキリストの終末的な話を朗読して、最後に「王であるキリスト」の祭日を祝います。今年はこの祭日に最後の審判の話を読みます。

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ロザリオ:悪に立ち向かう平和の武器

1917年の5月13日から10月13日までの6回にわたって、聖母マリアはポルトガルのファティマで三人の子供達に現れました。各出現の時にロザリオを罪人の回心と世界平和の為に唱えるように勧めただけではなく、最後の10月の出現の時に自分が「ロザリオの聖母」だと明かしました。

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老いる日まで、白髪になるまで

アメリカでは敬老の祝いはありませんが、2年前でしたか、教皇フランシコは我々の守護の聖人聖アンナとその夫聖ヨアキムの祝いに近い、7月の第4主日を教会の敬老の日と定めました。それを受けた日本の司教団は、日本の風潮に合わせてその教会の祝いを9月の第2主日に変更しました。大船教会では今年は4年ぶりにミサの後に敬老の祝いの会を開きます。これはまた喜ばしいことです。

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恵みを恵みとして受け入れること

聖体拝領前の信仰の告白に関して、どうして去年の秋に決めた言葉をこんなに早く再検討するかについて、「おとずれ」2月号の巻頭言で説明しました。その後で何人かの意見を聞いたら、規範版に載っている百人隊長の言葉、すなわち『主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。お言葉を頂くだけで救われます』(マタイ8:8を参照)の場合は、ある人は特に「ふさわしくない」と表現するところに引っかかると感たようです。ただし、どうして引っかかるかはよくわかりませんでした。

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聖アンナ、私たちのために祈って下さい

どうして大船教会が聖アンナに捧げられたかということをもっと調べてみました。ご存知のように、聖アンナの名前は聖書に載っていませんが、古代教会の伝統によるものです。東方教会では聖アンナに対する信心が古くから見られますが、もう既に紀元6世紀には聖アンナに捧げられた教会が建てられていました。西方教会(ヨーロッパ)では特に中世時代からこの信心が広がりました。

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愛は愛されていない

5月は「聖母月」ですが、6月は「イエスのみ心の月」です。1673年から1675年の間にイエズスはフランスの修道女聖マルガリタ・マリア・アラコックに数回現れて、ご自分のみ心について教えました。

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「私が来たのは、羊が命を受ける為、しかも豊かに受ける為である」(ヨハネ 10 : 10)

復活節第4主日は「良い牧者の主日」とも呼ばれ、毎年、ヨハネ10章から「羊と羊飼い」のたとえが読まれます。キリストの声を聞き分けてついて行く「羊」にたとえられているキリスト者は、豊かに命を受けるようになります。聖書で言う「命」の概念は一般的に使われている言葉に比べると、もっと広い意味、もっと深い意味を持っています。旧約聖書では「命」は生命を持ち続けることだけではなく、健康、安定した生活、幸せや喜びも意味していました。

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回心の歩み、喜びへの歩み

灰の水曜日に祭壇の前に置かれた枝は枯れていましたが、今は祭壇の前の枝は芽を吹いています。皆さんはいかがでしょうか。皆さんの四旬節の歩みは芽吹いていますか。灰の水曜日の灰の式に参加ができた人は、頭の上に灰を受けて「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と言われました。これは四旬節の歩みを豊かにする為に心に留めるべき言葉です。自分が死ぬ身になっている事実から目を逸らさないことは、信仰の歩みを深める為の大事なカギです。教会の教えでは、私たちが死んだらキリストの前に出て、自分の人生のすべてが明らかになって、裁きを受けます。

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「聖ヨセフと四旬節」

去年5月発行の説教要約集の巻頭言に触れたように、今年から聖ヨセフの祭日に特別なごミサを捧げることにしています。今年は3月20日になりますが、毎年、四旬節の間に祝います。でも考えてみれば、四旬節の間に回心に励んでいる私たちにとって聖ヨセフは、目指している模範的なキリスト者の姿を示しているから、ちょうどよいのではないかと思います。

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拝領前の信仰告白について

新しいミサの式次第を導入する時、小教区レベルで選択するところがありました。一つは「拝領前の信仰告白」です。大船教会では以前から唱えている言葉を選びました。「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてだれのところに行きましょう。」ところでもう一つの言葉、すなわち「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」がいいと言って再検討して欲しいという声がありました。

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「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」

聖書と典礼の注釈によると「宿られた」と訳された言葉の原語の意味は「天幕を張った」だそうです。この表現は主なる神がモーセに命じて砂漠で作らせた天幕のことを思い起こさせます。主は雲で天幕を覆ってご自分がイスラエルと一緒におられることを目に見える徴によって示されました。(民数記9章15節~23節を参照)それ自体は主からの素晴らしい恵みでしたが、主はイザヤを通して更に大きな恵みを約束して下さいました。

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待降節と聖母マリア

クリスマスカードには幼子イエズスを抱いている聖母の姿がよくあります。でも聖母マリアはクリスマスだけではなく、待降節を代表する方でもあります。旧約時代における主なる神の救いの計画は全てキリストを遣わす準備をする計画です。

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「私たちは大勢でも一つの体です。」

感謝の典礼の終わりに「交わりの儀」(コムニオ)があります。「コムニオ」という言葉はラテン語で「交わり」または「一致」という意味です。西洋教会では「コムニオ」という言葉は、以上の意味と同時にご聖体をも意味しています。こうした言葉の使い方はここで祝う神秘を表しています。つまり、「コムニオ」(ご聖体)を頂く全ての信者は「コムニオ」(交わり、一致)の関係に入ります。聖パウロは説明しています。

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信仰の神秘

前回テーマにした「ことばの典礼」の場合は聖書の朗読が中心ですが、「感謝の典礼」の場合は奉献文が中心です。「奉献」という名前からわかるように、献げる祈りです。前回はそれにも触れました。「キリストが教会の手を通してご自分を、そのからだである私たちが聖霊においてキリストを、御父に献げて礼拝しています。」ここで「これは私の記念として行いなさい」というキリストの言葉を理解する必要があります。実はキリストはただ一度ご自分を献げました。

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神のみ業を宣言するみ言葉、私たちを養うみ言葉

前回は「私たちはキリストの体、一人一人はその部分です」という聖パウロの言葉を引用して、共同体として集まって祈ることの大切さを強調しました。実はごミサは全キリスト、すなわち「かしら」であるキリストとその「からだ」である私たち、の行為です。キリストが教会の手を通してご自分を、そのからだである私たちが聖霊においてキリストを、御父に捧げて礼拝しています。それと同時に、かしらであるキリストは、同じごミサを通してご自分のからだである私たちを養って下さいます。これはごミサの構造に見られます。

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