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第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節
福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節
<お説教要約>
今日の福音書を読んで特に印象に残ったところは、キリストのナザレの会堂での説教の中でイザヤの予言を引用した箇所です。それはちょうど最後のところ、ご自分の使命を察して「主の恵みの年を告げるためである」そこです。解釈によるとこれは旧約のヨベルのことを指しています。開放の年、つまり五十年ごとに負債の全てが免除され、奴隷が解放されたヨベルの年、赦しの年そういう恵みの年です。そしてキリストは人の罪を赦し、また色々な病気を癒したりすることで更に人を解放して罪の重みから自由にしてくださったのです。でもここでは霊的な意味がとても重要だと思うのです。同じイザヤ書の中で引用されたところ「貧しい人に福音を告げ知らせ…」それも良い知らせです。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし…」これから行う活動のことをこのようにイザヤを通して実際にご自分において実現したと会堂にいる人たちに告げたのです。
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第1朗読 イザヤの予言 62章1~5節
第2朗読 コリントの教会への手紙 12章4~11節
福音朗読 ヨハネによる福音書 2章1~11節
<お説教要約>
きょうの朗読には、もうひとつの公現という意味があります。公に現す。公現という名前がついている祝いは、先々週の祝いです。そのとき、主は、不思議の星をとおして博士たちを導いて、代表の博士たちをとおして諸国民にご自分の栄光を公に現して、ユダヤの王に生まれたこと、救い主が生まれたことを現わしてくださったんです。
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第1朗読 イザヤ書 40章1~5、9~11節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14、3章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章15~16、21~22節
<お説教要約>
今日は主の洗礼の祝日。この日の意味は朗読に表れています。
まず、どうしてイエスは洗礼を受けたのでしょうか。とくに洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを考えると、彼の洗礼は悔い改める為の洗礼でした。イエスは悔い改める必要はありませんでした。教会の理解では、イエスはご自分の為でなく、私たちのために洗礼を受けられたのでした。洗礼の秘跡を準備するために主が身をもって、洗礼を受けたことにより、洗礼の恵みが私たちに与えられることになったのです。
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第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節
<お説教要約>
今日は主の公現の祝いです。漢字からわかるように、公に現すという祝いです。ユダヤ人はずっと前から、救い主メシアの到来のことは預言者を通して知らされてきました。実際にキリストはユダヤ人として生まれてユダヤ人の中で生き、羊飼いたちは天使たちのメッセージを受けて拝みに行った。ここで公に現すというのは、ユダヤ人以外のことを指しています。今日の福音書で読まれている占星術の学者(教会の伝統の中では博士という呼び方もある)たちはユダヤ人以外の異邦人の代表として、その不思議な星に導かれて拝みに来るのです。それによって他の民族、世界に現すという意味です。聖パウロもその意味を説明しています。旧約聖書の中で、救い主は自分たちユダヤ人のために来ると預言されたけれど、これは全世界に及ぶ出来事にもなると。今日の第1朗読はその中の一つです。他の国はそのいずれも宝物、黄金と乳香を持ってくる。でもそれは、異邦人が主なる神を拝みに来る、まだユダヤ人が中心で他の民族はユダヤ人に仕えるような立場が強かった。でもパウロが言ったのは、この秘められた計画はユダヤ人と異邦人が全く同等になり、その区別はもうなくなると。選ばれた民族と選ばれなかった民族ではなく、神の前でキリストを信じる人は全部選ばれた民になり、新しいイスラエルになる。そしてそれは私たちのことも指しています。今の私たちはユダヤ人に生まれた人は一人もいないけれど、この祝いは私たちの祝いでもあって、この祝いのおかげで私たちもその救いをいただくことになります。聖パウロが説明している神秘です。
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第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節
福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節
<お説教要約>
今日は聖家族の祝いです。このお祝いは今日の朗読を読めば二つの家族のことが考えられます。
一つはもちろんこの降誕節におけるイエス、マリア、ヨセフという聖家族のことです。それは福音書においてキリストが十二歳の時の出来事です。その時のことによってキリストは家族とか家庭生活というものを祝福し高めたのです。ご自分がこの世に来られたこと、家族の中で育つことは自らのみ心でした。その意味ではこの私たちの家族の模範にもなるし、そしてこの聖家族に私たちの家族を祝福してくださるように、そういう祈りも込められています。
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第1朗読 ミカ書 5章1~4a節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章5~10節
福音朗読 ルカによる福音書 1章39~45節
<お説教要約>
今日は待降節の第4主日です。待降節の流れとしては毎年同じですが、第1主日にはまず主の再臨の神秘を黙想します。それは、私たちが主の最初の到来、すなわちクリスマスの記念を祝う準備をするとともに、主が再び来られる時に向けて心を準備するためです。第2と第3主日では、洗礼者ヨハネの活動を黙想します。説教や改心の呼びかけを、自分に向けられたものとして受け止め、心の準備をします。
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第1朗読 ゼファニヤ書 3章14~17節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章4~7節
福音朗読 ルカによる福音書 3章10~18節
<お説教要約>
今日は待降節第3主日で、第一朗読の注釈にあるとおり、この日は喜びの主日であると言われています。主がすぐ傍に来ておられる喜び、それは今日の日のテーマです。確かに今日の朗読はそのテーマを表しています。いくらか違いも感じます、例えばゼファニア書の第一朗読が告げている喜びは、罰の後で主は憐れみを与えて救ってくださる、又新たに豊かにすること。ここで興味深いことは、イスラエル人が主の救いを喜ぶだけでなく、主ご自身がイスラエルの人々のことで喜ばれる、それは興味深いことです。私達人間は創造されたもので、主なる神に比べたら取るに足りない、無に等しい、自分では何も持っていないものです。全部主からいただいたものです。この私達でも、主の喜びになれるという、それはこの上ない光栄、栄光かと思う。小さい子供は親に褒められたら、すごく喜びます。親のために何かして、親がそれを喜んでくれたら、とても嬉しくなります。私達は子供のようにならなければ天国に入れない、その心、人間の主なる神の前の心、主に喜ばれるものになること、それは人間のこの上ない幸せ、喜びです。
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第1朗読 バルク書 5章1~9節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章4~6、8~11節
福音朗読 ルカによる福音書 3章1~6節
<お説教要約>
待降節のテーマとしては、先週も話したと思うんですが、第一の到来、キリストがベツレヘムで生まれて、この世に来られて、生活、宣教、受難、復活、その到来の記念の準備をするだけではなく、第二の到来、世の終わりに栄光を宣べて来られるときの準備、待ち望んで準備する季節でもあります。その意味では、過去を振り返りながら記念して、将来に向かっています。そのことは、きょうの聖書朗読に見られます。
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第1朗読 エレミア書 33章14~16節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 3章12~4章2節
福音朗読 ルカによる福音書 21章25~28、34~36節
<お説教要約>
待降節第一主日。主の再臨。プリントの第二朗読の注釈にもあるように、待降節のテーマは2千年前の主の到来であると同時に、第二の到来を待つことです。それで、年間主日の終わりと待降節の始めとは関連しています。
主の再臨、栄光を帯びて主が来られるとき、第二朗読で聖パウロが言っているように、「ご自身に属するすべての者たちと共に来られるとき」、これが今日のテーマです。同じルカの21章、今日の箇所の前のところでは、その前に来るいろいろな苦難について語られます。主の再臨が今すぐに来るとは思えませんが、その前の苦難は今の時代にもっと近いように思えます。
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第1朗読 ダニエル書 7章13~14節
第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節
<お説教要約>
今回は年間第34主日でしたたが、それは毎年「王であるキリスト」を祝っている祭日です。
たしか教皇ピオ11世によって定められました。先世紀の初め頃ヨーロッパで独裁主義の傾向が表れ人々に人間の支配がありました。が、すべてをこえてキリストが支配しておられる事実を思い起こさせるためでした。