年間第30主日 2024年10月27日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 31章7~9節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章1~6節

福音朗読 マルコによる福音書 10章46~52節

 

 

<お説教要約>

今回は一つの癒しの奇跡の場面です。ここでは、イエスは人に対して、他の箇所でもそういう表現が出ますが、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言います。厳密にいえば、イエスが救ってくださるのです。ただ、イエスの場合は、ほかの箇所でも見られるように、深い信仰を持っている人に対して、もっと進んで救ってくださるのです。信仰がイエスの御心に訴えるような感じで、イエスはそれを断りきれません。主の愛の心です。主はそれを求めておられます。

 

恵みを与えるにはそこまで求めません。イエスが説明されたように、天の父は善人の上にも悪人の上にも太陽を登らせ、雨を降らせてくださるのです。人が頼まなくても恵みをいつも注いでくださいます。でもやはり主は求めて欲しい、信じて欲しい。主は私たちと、もっと親しい関係を求めておられます。それは愛の働きです。本当に深く人を愛しているなら、その人と親しくなりたいのは、当然です。それは愛の一つの現れです。主は恵みより、私たちとご自分との関係が大切です。人間の多くの場合は逆です。私たちの傾向としては、神様との関係を考えるより、とにかく自分の欲しいものが中心になります。それをもらいたい、それをして欲しいという気持ちが中心になりがちです。その意味では、盲人は信仰の模範を示しています。心から求めているのです。大事な信仰の特徴です。口先だけでなく、心からです。それは本人の行動にも現れます。人がこの人を叱りつけて、黙らせようとしても、叫び続けます。やがて呼ばれたら躍り上がって行きます。心はそこに現れます。それだけではなく、本人は体の目を癒して欲しいと一生懸命願ったのですが、主に対する思いが厚くて、信仰もあったから、それ以上恵みをいただいたのです。体の目だけでなく、心の目も開かれたのです。体の目のことだけだったら、見えるようになったら、主に深く感謝して、お礼をして家に帰ったでしょう。でもそうではなく、癒されたら、なお道を進まれるイエスに従いました。その時、イエスはちょうどエルサレムに向かっていたところでした。ご自分の受難を迎えるために、十字架に向かって道を進んでおられたのです。そのイエスにこの人は従って行き、弟子になりました。そこでは、恵みを求めたけれど、恵みをいただいことによって主に対する関係が変わったのがはっきり見えます。ただ、恵みを与える方だけではなく、自分の人生の中心になって、ついて行く方になりました。それは主が恵みを与えるとき、特に望んでおられることです。

 

私たちは、どうやってそのようにイエスともっと親しくなるのを求めるかというと、福音書には一つの大事なヒント、手がかりがあります。イエスは癒す前に聞きました。「何をしてほしいのか」それは重要な質問です。人の望みです。

 

心から望みがなければ深い信仰になりません。口先だけの信仰、口先だけの祈りに、主は惹かれません。心の叫びを聞いておられます。人の涙を、心からの願い、祈りを顧みられます。

 

一つ、聖イグナチオが教えているやり方を使ったらとてもいいと思います。聖イグナチオは、福音書を読むときは想像を使って、その中に入るように指示しています。キリストと直接出会うためです。この場合は、自分がイエスの前に立って、今、盲人となって自分に向かって聞いていることを想像したらいいと思います。

「何をしてほしいのか」

それを言われたら、どのように答えたらいいか戸惑う人は少なくないと思います。場合によっては、何も思いつくことがないかもしれないし、逆にあまりにもたくさんあれこれ思い浮かぶもしれない。それをしぼって、

「何よりも何をしてほしいのか」

キリストの望みには次元があります。浅い次元からくる望み、もっと奥の深いところからくる望み。心の奥底からくる望みは、一番深い望みで、一番主に受けるべき望みです。自分の心はどうなっているか?その望みを見つめることが重要です。これは一つの見つめるためのやり方です。主の前で、主に聞かれることを想像して、自分から主の前に答えようとする。考えさせることがあると思います。それでしたら、自分の深いところに入ります。そこから主とのもっと深い関係が可能になります。うわべだけのレベルだったら、いつまでも深くならないのです。人との付き合いもそうです。ある人とのおつきあいの中で、会話が社交辞令や、天気の話だけだったらそんなに親しくなりません。人が親しくなるには、人との信頼が深まって、心開いて、心許していろいろなことを話せるような関係があって、そこで親しくなります。主ご自身と同じです。

 

キリストと親しくなることは、自分の心の奥底から主に向かって、心を主に向ける、主に心を許して、開く。そうするとき、私たちはもっと主と親しくなります。開かれた心には、もっと主は力強く働かれます。それだったら、主は私たちにも言われるようになります。

「あなたの信仰があなたを救った」