年間第26主日 2024年9月29日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 民数記 11章25~29節

第2朗読 ヤコブの手紙 5章1~6節

福音朗読 マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節

 

<お説教要約>

今回の福音書のイエスの言葉、教えは、この短い箇所で2〜3つくらいのテーマがあります。言葉がわかりにくい面もあるかと思いますし、重要なものですから、最後の方から始めようと思います。表現としては、手や足を切り捨ててしまうとか、目をえぐり出すとか、怖い、厳しい言葉に感じるかもしれないです。時代背景としては、当時は人の学びや教えは言葉によったのです。今みたいに本が簡単に手に入る時代ではなかったのです。巻物は貴重なもので、豊かな人でないと、まず本を持つことはできなかったのです。人の話を聞いて覚える学び方でした。そのような背景があったので、イエスはわざと極端な、誇張した表現を使うのです。インパクトが強いから覚えやすいのです。主の表現は、他のところで読んでも、背景がわかれば役立つでしょう。

 

それでもこの表現は何を指しているか、どういう意味か?まず一つは、つまずかせる問題です。ここで言う、つまずかせるとは、よく見れば、信仰の歩みにおいてつまずかせる、信仰の道からそれて、踏みはずして出てしまう恐れ、結果としては、人が地獄に落ちるという大変なことになるのです。手、足とか目、身体の部分という問題より、そのところを使って求めている欲望、欲張りが問題です。キリストが根本的な道としては、神を信じ、信頼して、神を愛して隣人を愛しなさいという愛の道ですが、人間は神を愛して、他の欲張りを持っていながらいると、神に対する愛からそれる恐れがあります。そこをキリストは警告しています。信仰の歩みにつまずいて道から外れるなら地獄に行き着くことになるという警告です。

 

イエスは他のところでも話していると思います。例えば、手に入れるようなものに対する欲張り、財産の金とかです。金持ちがたくさんの蓄えができたので、財産があるから安心して楽ができると思ったら、その日は自分の命が取り上げられ、財産は他の人の手に渡ったという愚かさ。欲望を捨てて、心から神を求めることは大切です。足においても、歩む道、出世のコースとかばかり考えると神様から離れる恐れがあるのです。目で見ることは、考え、快楽などの欲張りです。私たちは心から神を愛して隣人を愛するようになるためです。

 

この問題は、イエスは別のたとえ、ぶどうの木のところでも話しています。“弟子たちにご自分がまことのぶどうの木、弟子たちはその枝である”ご自分を離れては何もできないのです。その場合は、御父は実を豊かに結ぶために手入れをするのです。植物は生物学的にも言えるのですが、どうして手入れをするかというと、樹液はぶどうの幹を流れてくるのです。手入れをしないと、いっぱいの枝や葉ができて、樹液の力は、様々なたくさんのところに行くので弱っていきます。あまり実がなりません。手入れは余分な枝を切って、流れる樹液は集中して残っている枝に流れるから、もっと力を持っているので、もっと豊かに実を結ぶのです。私たちの生き方のたとえです。私たちの愛、何を愛しているか?神様に向かう愛と同時に、金銭に対する愛、これに対する愛と別れていくと全部弱っていきます。あまり実を結ばないのです。それを切り取る必要があります。ものを捨てる場合もあるでしょう。キリストが言うように地獄に行くより、切り捨ててしまった方がまだいいでしょう。でも、いちばんの問題は欲張りです。欲張りを切り捨てるなら、あとはそれほど問題ないのです。むしろ、そのようなものを持っていながら、神様のためにそれを持つなら違うのです。神様に仕えるために、神様に栄光与えるために、それを持つのは問題ないのです。聖パウロはそのことも教えています。何にしても、主の名によって行い、父なる神様に感謝しなさいと。自分がそういう心で生活すると、自分の生活は全て神様に対する捧げものになるのです。食べる、飲む、休む、働く、人と接する、何にしても、神様に対する捧げものになっています。それだったら本当に愛の道を歩むことになります。