先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。
第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節
第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節
福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節
<お説教要約>
8月の間に読み続けたヨハネによる福音の6章が終わってこの日曜日からマルコによる福音に戻ります。
今日の朗読は特にみ言葉に対する態度について私たちに教えていると思います。ヤコブの手紙では「心に植え付けられたみ言葉を受け入れなさい。このみ言葉は、あなた方の魂を救うことができます」と書いてあります。先ずは私たちはみ言葉の力を意識するように教えられています。天地創造の時に主は「光あれ」と言われて光がありました。主のみ言葉は「存在していないものを呼び出して存在させる」ぐらいの力を持っていますので当然私たちの魂を救って永遠に生かせることができます。このみ言葉は「真理の言葉」すなわちイエズス・キリストによる救いの福音のみ言葉です。主なる神はキリストを信じるようになった人の心にこのみ言葉を植え付けてそのみ言葉の力によって人は生まれ変わります。天地創造の時と同じように主のみ言葉、主の恵みが先です。
でも恵みを頂いた人にもすることがあります。聖ヤコブが書いているように、植え付けられたみ言葉を受け入れることです。実はフラシスコ会訳はこのところをギリシア語の原本にもっと忠実に「心に植え付けられたみ言葉を素直に受け入れなさい」と翻訳しています。この「素直に」は大事なところです。み言葉を受け入れてはいますが、素直には受け入れていない人もいます。
そういう人の一例は福音書に出ているファレサイ派の人々です。キリストが批判しているように、神の掟、神のみ言葉より人間の言い伝えを大切にして、神の思いより人間の思いを大切にしています。ここに私たちに対する教訓があります。現代教育を受けた私たちは学校の教科書のように聖書を読む傾向があります。すなわち、み言葉を理解して把握することから始めて、わからなければ教えて欲しいという読み方です。み言葉を素直に受け入れることは先ず主が私に向けられたみ言葉として聖書を受け止めることから、教科書を読んでいる心より親しい友達からの手紙を読んでいる心から始めます。これはどういう意味か、と考えるより、主は今の私に何を伝えているか、と考えます。わからなければそのみ言葉を心に納めて思い巡らして、祈りのうちに主に聞いてみます。知識より主のみ心を知ることが目的です。ごミサに参加する前にこのようにその日の聖書箇所を黙想しておけばごミサの参加はもっと恵み豊かなものになります。
聖ヤコブは続けます。「み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」聖書全体を通して主が私たちに伝えているメッセージは何よりも主の私たちに対する愛です。それは、主が聖書に収められているあらゆる言葉を人間に語りかけた第一の理由です。でも、だれかがある人を深く愛している場合にその相手が自分の愛に気づいて応えて欲しいと思うように、主は人間にご自分の愛に気づいてそれに応えて欲しいと望んでおられます。「み言葉を行う」ことは主君に使えるようなものではなく、自分を愛している人を心から愛して、その愛を言葉だけではなく行動で示すようなことです。主は何よりも私たちの心を求めておられます。そのために、キリストが引用したように、主はイザヤを通して嘆きました。「この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。」