先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。
第1朗読 箴言 9章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章15~20節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節
<お説教要約>
きょうは、また、この8月の間に読み続けている「ヨハネによる福音書」6章のところです。今回は、その頂点になっている感じがします。と言うのは、きょうの箇所で、キリストはもっとはっきりと、ご聖体の神秘について説明しています。前回は、終わりのところで、世を生かすためのパンは、ご自分の肉であるとしました。そこで、ユダヤ人たちは、それに躓いて、どうして自分の肉を食べさせることができるのかと疑問をもっていました。
あるひとは、このことを象徴的な意味として捉えます。でも、この箇所を読むと、象徴的な意味には捉えられないと思います。確かに、当時、ユダヤ人たちの間で、象徴的な意味で「食べる」とか「飲む」という表現が使われたそうですが、ここでは、キリストはそれと違います。と言うのは、そういう疑問が出た時、もし象徴的であるなら、イエスはもっと説明したはずです。でも、そうではなく、むしろもっと具体的に、現実的に話を進めます。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と、そこまで言います。
註釈にあるように、「血を飲む」ことは特に衝撃的だったでしょう。律法では、厳しく禁じられていたことです。でも、キリストはそれを強調し、繰り返してもいます。このことをどう受けとめるか。教会としては、ここでは、まず信仰することです。私たちがわからなくても、主イエスご自身がそうおっしゃったから、主イエスは真理そのものでおられるから、間違いなくそのとおりです。私たちがわかっても、わからなくても。わからない場合は、私たちの理解の限界の問題です。疑う理由にはなりません。その事実は、教会のずっと最初からそのように受けとめられました。
聖パウロも、コリントの信徒たちに対して、キリストの体と血を認めなければ、それに対する罪をおかすというような表現をするし、後の古代教会では、求道者に教える者は何回も注意しました。感覚に頼らないで、感覚的に確かに何も変わらないとしても、実体が変わります。本当に、キリストの御体と御血になるわけです。それはずっと教会の信仰です。でも、そのものの深い意味は、ここにも示されています。まずイエスは、「まことの食べ物」、「まことの飲み物」と言います。
「まことの食べ物/飲み物」というのは、普通の食べ物/飲み物とは違います。普通の食べ物/飲み物なら、私たちの体の命を支えるものです。でも、キリストが与える「まことの食べ物」、「まことの飲み物」は、それよりもっと、はるかに優れたもの、私たちの霊魂に永遠の命を与えるだけではなく、体にも命を与えます。私たちが死んだら、主の恵みによって、ご聖体の力で私たちは復活することになります。そのために、聖イグナチオは、ご聖体を「不死の妙薬」と呼んでいました。死そのものに打ち勝つ、命を与える力を持っています。すごいことです。
もうひとつのところは、キリストとの一致。ここでは、ご聖体の愛の神秘があります。イエスは、どうして私たちにご聖体を与えてくださったかというと、ひとつは、私たちに命を与えるため。まことの命、永遠の命を与えるためです。もうひとつの大きな理由は、ご自分と一致させるためです。私たちは、洗礼によってすでにキリストに結ばれた者になるのですが、その絆を養うため、もっと深くするために、ご聖体の秘跡があります。キリストは、それを後で説明しています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。だから命を与えるものです。キリストは私たちの命です。
でも、それを考えたら、ご聖体拝領は少し違う目でみる必要があると思います。と言うのは、多くの場合は、ご聖体拝領とは、いただくものです。いただくものは、食べ物というより、いただくのは、キリストご自身です。多くの場合は、ご聖体拝領のために並んで、ご聖体をいただく時は、キリストご自身が私の中に入ると、そこまであまり考えないかも知れません。そこで、キリストの気持ちも考えるべきです。と言うのは、ご聖体の秘跡は、愛の秘跡です。そして、愛は、愛する相手に自分を与えたいという望みがあります。愛には、自然にそれがあります。
私たち人間同士では、しるしとして、愛する相手にプレゼントをするとか、喜ばせることをするとか、いろいろ考えます。でも、キリストは、私たちよりすべてお出来になるかたですから、本当にご自分自身を私たちに与えることができます。それは、このご聖体のうちに。私たちがご聖体拝領をする時に、キリストのほうから見れば、恐らく、私たちが主をいただきたいと思うよりはるかに強く、ご自分自身を与えたいと望んでおられると思います。その意味では、私たちはご聖体拝領する時、これはキリストと一致する時だと、わきまえるべきです。それならば、私たちも、主の愛に愛をもって応えるように呼ばれています。
愛するひとは、愛する相手から自分も愛してほしいと常にその想いです。キリストもそうです。ご聖体拝領する時は、私たちは、それほど立派な人間ではないとしても、とにかく「主よ、あなたを愛しています。わたしの愛は弱いです。でも、どうかあなたの力強い愛をもって、わたしの中に入って、わたしの愛を強めてください」という思いで、ご聖体拝領するなら、それは、主に喜ばれることになって、私たちにとって大きな恵みになります。