先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。
第1朗読 出エジプト記 16章2~4節、12~15節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章17節、20~24節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章24~35節
<お説教要約>
今日のヨハネによる福音書は、先週の続きです。先週はパンと魚を増やした奇跡の場面でした。それを基に、ヨハネによる福音の中でイエズスは意味をもっと深めていきます、6章を通して。特に今日の箇所は、対照的なことを強調します。自分を求めてきたユダヤ人に対して、朽ちる食べ物の為ではなく、いつまでもなくならないで、永遠に至る食べ物の為に働きなさい、それは大事な指摘です。というのは、その当時のユダヤ人は、奇跡的に満腹するまで食べさせてもらった。そういう恵みを与えるイエズスの後を追っていた。もしかしたら更に何かあるのでないかと、思ったのかもしれないのです。
イエズスが指摘するのは、朽ちる食べ物、現世的な物に留まらないで、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る為の物をいう。それは、この世での幸せを求めるばかりでなく、イエズスが勧めているのはそうではなく言い換えれば、あの世での幸せを求める様にということ。
特に今の現代人には、かなり難しいものだと思います。実際に教会の伝統の中で、そういうあの世の幸せを求めようとしないことは一つの罪と教えられています。それは霊的怠惰という罪です。怠惰全体は、やはり自分がなすべきこと、責任があることを怠ったりして、怠けたりする様なことです。人間は、現世的な物、この世の物に関して、怠惰な態度を咎めるのです。それはいけない、と。仕事をちゃんとしなさい、とか、それはよく意識しています。でも人間にはもう一つの責任もあります。それは真実を求めて、真の神を信じる様に、人間はそういう責任も持っています。
人間には二つの側面があります。一方では人間の動物と共通するところであり、体を持って生活する必要があり、所謂衣食住が必要だし、家族や子供達に対する所は動物と共通です。感情も動物と共通です。動物も、怒りとか恐れ、色々なことを感じます。喜びもそれなりに感じます。この世の物だけの幸せを求める場合は、動物と同じ様な幸せを求めることになってしまう。それは、人間より劣ったレベルの幸せを求めています。
人間のもう一つの側面は、精神的な面、特に知性、理性の所、自由意志、その点では人間はむしろ天使に似ています。または主なる神自身に似ています。そういう側面の欲求もあります。人間は体の欲求は皆すぐ解る、もっと具体的に。でも精神的な欲求もあるのです。それを求める責任は人間にはあります。現代社会では、それをかなり怠ったり、なまけたりしています。そこまでは面倒臭い、分かり難いと色々理屈を言って、口実を立てて、なまけています。
イエズスはすごくそれを感じるのです。それはこの後の話の中で、イエズスはその所に触れています。すべきことは、神がお遣わしになったキリストを信じることです。信仰自体はそれこそ、あの世の幸せ、人間の精神的な欲求を満たす徳です。怠けない人は求めます。何が本当に真実か、主なる神がおられるかどうか、どういうような方か、それに関心を持って求めることは、信仰の業です。それは人間の、もっと完全な幸せにつながります。だから、キリストは最後にご自分を信じる者は決して乾くことがない、心の飢え乾き、精神的な飢え乾きが満たされます、と言います。
人間は、この世の為だけに造られたのではない。永遠に神と一緒に生きる為に造られたのです。しかも神の愛の交わりの中で生きる様に造られたのです。人間がこの世の物だけを求める場合は、自分の尊厳を卑しめて、劣った次元の幸せを求めて、結果としては心が満たされないのです。むなしい思いをしたり、退屈を感じたりして、色々でてきます、現代社会で見られる色々な現象につながっています。
でも主を求める者、なまけないで精神が求めていることを求める人は、主なる神に導かれて、信仰によって精神が照らされて、主の慰めと愛をもっと感じる様になって、そこで心が満たされます。特に今日の箇所では、キリストはそれを強調しているのです。信仰の大切さ、信仰によって人間が永遠の命に至る食べ物をいただくのです。
それはまず、第一として主の言葉、キリストの言葉によって私達は養われます。ミサのことを考えたら、それは特に御言葉の典礼の時です。御言葉の典礼によって私達は主の御言葉の食卓で養われます。