キリストの復活の日に基づいて、教会の始めからキリスト者は毎日曜日、「主の日」すなわち「主日」にキリストに呼び集められて集会を開いて祭儀を執り行ってきました。ヘブライ人への手紙では「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」(ヘブライ10章25節)と戒めています。それ以来、主日に集まることはキリスト者の信仰生活の根本的な要素です。
紀元304年にローマ帝国のディオクレチアン皇帝が、日曜日に集まるキリスト者を死刑にすると宣告していましたが、現在のチュニジアにあったアビテネ村で49人のキリスト者が感謝の祭儀の最中に見つけられて逮捕されました。なぜ皇帝の命令に逆らったのかと尋問された時、代表の者は「主日なしにはできません」と答えました。そして49人とも殉教しました。それだけ主日の祭儀を大切にして励まし合いました。
日本のキリスタン時代にもキリスト者は命懸けで集まって一緒に祈って七世代にわたって信仰を伝えて、励まし合いました。
現代社会の中でも、特に日本のようにキリスト者がとても少ない社会の中ではキリストを囲んで、み言葉とご聖体に養われて励まし合うことはとても大切です。その大切さを明白にするために教会の掟もあります。「主日及びその他の守るべき祝日には、信者はミサにあずかる義務を有する」(教会法典の第1247条;但し病人また病人の介護などの重要な理由のある場合はその限りではありません)
ごミサは本来の主日の祭儀ですが、先日の中和田教会のように急にできなくなることもあります。その時に共同体が集まる習慣を崩さないため、またみ言葉と(可能な場合は)ご聖体に養われて励まし合うために集会祭儀を行います。それによって信者の信仰生活をあらゆる状況のもとで保証するように努めます。中和田教会の信者は日野神父様入院直後の日曜日に集会祭儀を行いましたが、中和田教会の信者がごミサにも参加できるために、他の第五地区内の教会で集会祭儀を行ってその教会の司祭が中和田教会にごミサを捧げに行きます。こうして私たちは小教区を越えてキリストに結ばれて励まし合います。