年間第16主日 2024年7月21日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミヤ書 23章1~6節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 2章13~18節

福音朗読 マルコによる福音書 6章30~34節

 

<お説教要約>

きょうの箇所は、いろいろ弟子たちが戻ってきてからの話ですが、特に、最初ところは重要だと思います。その行き先の場所に着いたら、すでに大勢の人たちが集まっていたので、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」。ここでは、羊飼いのいない有様について教えています。それ自体、教えの大切さを示しているんです。キリストは、私たちのところに来られた時、父なる神がどういうかたか、そのような父なる神だから人間はどのような道を歩むべきか、それを示すために来られたんです。そして、私たちにそのように信じて歩む力も与えてくださるために来られたんです。そこには、私たちの救いがあります。ひとつは、主なる神・父なる神はどのようなかたかを正しく知ることがとても重要です。

 

人間関係においても、自分がまったく知らない人、または誤解している人、偏って見ている人とは親しくなれません。真実の人、正しくその人を見ていないと、本当の意味で親しみが生まれないんです。神さまとの間でも同じことが言えます。神さまと親しくなるために、まず、どなたであるかを知るべきです。それに基づいて、歩める道も知る必要があります。それを知らなければ、ここにあるように、羊飼いのいない羊のようになります。註釈にも説明があるように、羊は弱い動物なので、飼い主がいないと野の獣の餌食にされてしまうと。これは司牧の実際のところですが、霊的な意味でとらえると、本当の神がどなたであるか知らなければ、そして、それに基づいて歩むべき道を知らなければ、いろいろ迷って、さ迷って、悪魔の餌食にされてしまう恐れがあるんです。その意味で、教えはとても重要です。私たちの救いはそこに係っています。

 

正しい教えを正しく理解して、信じて、それに従って歩むことは救いの道です。それがキリストが示しに来られた道です。そのことは、教会の中で、今日に至るまであります。現代社会でも同じようなことが見られると思います。現代社会では、信仰の自由は正しい意味では教会でも認められます。ただ、一般社会のとらえ方は、皆それぞれ自分の好みによって、自分の好きなようなことを信じてもいいという思いがあるようです。それは違うんです。それは結局、人間が自分の信仰をつくりあげること、宗教をつくりあげるようなことになってしまうんです。しかし、聖書から見れば、信仰と宗教は主なる神が示してくださるところです。主なる神からの教えがあるというところは、そこは本当の救いの道につながります。でも今も、私たちは、社会の中に住んでいるから、そのような現代社会の混乱に影響を受けます。そこで私たちは、教えの大切さを正しく理解する必要があります。

 

でも、実は、現代の教会の中にも、そのような混乱の問題があります。日本ではそれほど感じていないだろうと思いますが、特にヨーロッパとアメリカでは、教会の中の混乱、つまり司教と司教が対立し、枢機卿と枢機卿が対立して、教義・教え、歩むべき道について議論が起きています。そのため、信者の中には、どう信じればいいか戸惑う人たちもいます。もしかしたら、日本の教会にもそういう状況が起きるかも知れません。今のところはそれほど感じませんが、今後はわかりません。だから、その場合どうすればいいか。特に教会内に混乱がある場合は、もっと難しいです。まさに飼い主のいない羊のようになる恐れがあります。要は、私たちはキリストご自身の教えに基づいて、キリストが教えたように信じて、キリストが教えたように歩むべきです。

 

信じていることが議論になっている時は、何が本当にキリストの教えか、それを知る必要があります。何よりも聖書に親しんで、聖書から学ぶなら、それは幸いです。本当の力になります。それから、教会のカテキズムがあります。ヨハネ・パウロⅡ世の時は、教会の教えが一冊にまとめられて、そこでもっと順序立てて説明されています。それは教えを知るためにとても為になります。聖書を読んだりカテキズムを読んだりするところまでいかない場合は、もう少し易しいことを考えたら、まず聖イグナチオ・ロヨラが教えたことは大切だと思います。聖イグナチオが言うには、混乱の時期に、何も変えてはいけないんです。何かの決断とか、これをしようとか、神さまのみ心を知ろうとして何かを決めるのは、混乱の時は避けるべきです。混乱の時には、むしろ悪魔が働いているから、その時期に何かを決めたら、悪魔に従ってしまう恐れがあります。

 

聖イグナチオが言うには、主なる神の前で、平和の心でいる時に何かを決めたら、もっと聖霊に導かれた感じです。教会全体のことを考えると、教会が混乱している中で、今までの教えを変えてはいけないんです。教会がもっと落ち着いて、平和のうちに聖霊に導かれて、その教えを深めるような意味で何かさらに発展するのであればいいんです。たとえば、第二バチカン公会議はそういう時でした。第二バチカン公会議では、そこで出された文書は、参加した司教たちの三分の二ぐらい、かなり多くの司教が賛成でした。そうした一致は、聖霊の働きのしるしです。そうでなければ、ほかのことを言われても、今までのことと異なるなら、そのままにしておくほうがもっと賢明です。そして、そのことについてまた学ぶ機会にもなります。聖書やカテキズムを調べて、そこで主が何を本当に教えているか知る機会にもなるし、それならば私たちも迷った羊ではなく、きちんと主の教えた道を歩んで、救いへの道を歩み続けることになります。