愛は愛されていない

5月は「聖母月」ですが、6月は「イエスのみ心の月」です。1673年から1675年の間にイエズスはフランスの修道女聖マガリタ・マリア・アラコックに数回現れて、ご自分のみ心について教えました。「見よ、人間に対する愛に燃えているこの心を。その愛を全人類に証明するために惜しまずに全てを尽くしたのに、大部分の人は恩を知らず、愛の秘跡であるご聖体のうちに現存している私に不敬、冒涜、冷淡さ、軽蔑を返しているばかりだ。」と聖女に嘆いて、6月に祝われているご聖体の祝日後の金曜日を、み心を礼拝する特別な祝日として定めるように頼まれました。

その日に信者が集まってごミサに参加して、イエズスのみ心がご聖体のうちに受けている侮辱に取って代わって、み心を礼拝してイエズスに対する愛を込めて敬虔にご聖体を拝領するようにと、依頼されました。この出現の後でみ心の信心が益々広がって、教皇様はイエズスの依頼通りに「イエスのみ心の祭日」を定めました。修道院ででもこの祭日を祝いましたが、大船教会では6月7日(金)の10:00から祝います。

 

今年はちょうど初金曜日に当たります。実は大船教会と他の教会で行われている「初金曜日のミサ」はこの同じイエズスのみ心の信心に由来します。1687年の出現の中でイエズスは、み心とご聖体を通して示されたご自分の愛に応えようという思いを込めて、続けて九つの初金曜日にご聖体を拝領する人にいくつかの特別な恵みを約束されました。その中で特に大きなのは臨終の痛悔の恵みです。すなわち、人が死を迎える時に自分の罪を悔い改めて、臨終の塗油の秘跡を頂いて平和のうちにこの世を去ることができるように与えられる恵みです。その約束を受けて多くの教会で初金曜日に特別なごミサを捧げるようになりました。

 

この信心は私たちの信仰の核心を伝えています。聖ヨハネは手紙の中で「神は愛です」と断言していますが、それは聖書全体とキリスト教の全体の教えを理解するには何よりものカギです。でも聖書と教会の歴史が証明しているように、人間の大部分はその偉大な愛に応えようとしないのです。それで聖書全体が主なる神の、聖女に現れたイエズスがご自分の、人間に対する「片想い」を表して、一つになって嘆いています。神は愛です。しかし「愛は愛されていない」これは人間の悲劇です。人間の不幸です。