「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」

聖書と典礼の注釈によると「宿られた」と訳された言葉の原語の意味は「天幕を張った」だそうです。この表現は主なる神がモーセに命じて砂漠で作らせた天幕のことを思い起こさせます。主は雲で天幕を覆ってご自分がイスラエルと一緒におられることを目に見える徴によって示されました。(民数記9章15節~23節を参照)それ自体は主からの素晴らしい恵みでしたが、主はイザヤを通して更に大きな恵みを約束して下さいました。

 

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7章14節)「インマヌエル」とは「神は我々と共におられる」という意味だそうです。もう天幕と雲によって共におられるではなく、子供において共におられます。旧約時代ではこの預言の深い意味は示されませんでしたが、キリストにおいて示されました。すなわち「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」永遠の言、神と共に神でおられるキリストは「肉」(注釈によると「弱く滅びゆくものとしての人間を指す表現)となられました。もはや「徴」によらないで神ご自身が目に見える方となられました。「イエズスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。』」(ヨハネ14章9節)キリストの誕生によって神はこの上ない仕方で我々と共におられるようになって、今度は絶対に離れられません。

 

でもキリストの時代に生きた人だけがキリストを見ておん父を見ることができました。キリストは今生きている私たちのことを思って、世の終わりまでの全ての時代の人と目に見える仕方で共におられることを望まれました。そのためにご聖体の秘蹟を制定されました。使徒たちの時代から今日に至るまで教会はキリストがご聖体のうちに現存しておられると信じてきました。そのために教会はごミサを大切にしているし、そのために教会は聖体礼拝を行います。もちろんどこでもキリストに祈ったら恵みを頂けますが、キリストは人がご聖体のうちにおられるご自分の前で祈ることを喜ばれます。そして特別な恵みを与えられます。大船ではご聖体の前で祈る機会があります。「おとずれ」で知らせている聖心侍女修道会会の修道院での時間の他に、大船教会では毎週木曜日15:00から16:00までに聖体礼拝と聖体賛美式が行われます。