神のみ業を宣言するみ言葉、私たちを養うみ言葉

前回は「私たちはキリストの体、一人一人はその部分です」という聖パウロの言葉を引用して、共同体として集まって祈ることの大切さを強調しました。実はごミサは全キリスト、すなわち「かしら」であるキリストとその「からだ」である私たち、の行為です。キリストが教会の手を通してご自分を、そのからだである私たちが聖霊においてキリストを、御父に捧げて礼拝しています。それと同時に、かしらであるキリストは、同じごミサを通してご自分のからだである私たちを養って下さいます。これはごミサの構造に見られます。

 

ミサ聖祭は、大きく分けたら「ことばの典礼」と「感謝の典礼」からなっています。前者は共同祈願までですが、名前からわかるように、聖書の朗読が中心です。朗読箇所は典礼暦に沿って選ばれています。一年間を通して教会はキリストの神秘(ご降誕、公生活、ご受難、復活、昇天、聖霊降臨、キリストの再臨)について聖書を読んで、その神秘を宣言して祝っています。聖書にも見られるように、主なる神のみ業を宣言すること自体は主を賛美して礼拝することです。しかも教会はそれを毎年繰り返して繰り返して宣言しています。というのは、このみ業の神秘があまりにも奥深いから、私たち人間は繰り返すことによらなければ、この神秘をもっと深く生きるようになることができません。でも信仰の歩みを続けているなら、例えば今年のご復活祭は私にとって去年のご復活祭と少し違います。一年間の間、私はいくらか成長したから、それだけご復活祭の神秘を去年よりもっと深く生きるようになったから、去年と違います。

 

御父を礼拝するだけではなく、キリストに養われています。ごミサの中でみ言葉が朗読される時、キリストは私たちに語りかけています。聖書は人間の言葉でもあるから、理解するために言葉の意味とその時代背景を説明することも大切ですが、神の言葉でもあるから、時空を越えるものです。共同体のうちに現存して、またみ言葉のうちに現存しておられるキリストは、今ここにいる私たちに向けられた言葉としてみ言葉を語りかけています。でも私たちはそのようにみ言葉を受け止めるには心の準備が必要です。だから、前もってみ言葉を読んで黙想して祈ることが大切です。「聖書と典礼」の裏に次の日曜日の聖書朗読の箇所が書いてあるから、パンフレットを持ち帰ってみ言葉を黙想しておいたらごミサの参加はもっと有意義なものになります。ごミサの中の朗読者の場合はなおさらのことです。朗読者は朗読練習だけではなく、前もってみ言葉を黙想して自分の心の糧にしたら、信仰をもって朗読するから聞く人ももっと容易に神の言葉に耳を傾けられます。