「貴重な滋養を与えてくれる」高齢者

教皇フランシコは、今年から私たちの守護の聖人聖アンナとその夫ヨアキムの記念日(7月26日)に近い7月の第4主日を「祖父母と高齢者の為の世界祈願日」に定めました。当日のごミサの説教で教皇さまは「高齢者は捨ててしまってもいい『残り物』ではなく、家庭や若者たちと共同体にとって貴重な滋養を与えてくれる」と主張しました。現代の効率重視の競争社会では高齢者の違う貢献が評価されない恐れがあります。日本では国が定めた「敬老の日」が定着しているから、おそらく日本の教会は教皇さまの意向をくんで、9月に祝い続けると予想します。

ところで高齢者はどんな「貴重な滋養を与えてくれる」でしょうか。一つ思うには、高齢者が今の生活を人生の完成として生きているなら、人生の意味について問いかけます。多くの人は成長していくと様々な目的があります:学校、就職、結婚、子育てなど。でも高齢者はそれらの目的を達しているから、今の生きがいは何でしょうか。趣味もあるでしょうが、それだけでは物足りないでしょう。

 

人間は成長に伴って次第に更に高い次元のものも求めるようになります。赤ちゃんの時は、体の必要と愛情を求めます。幼児時代からは、それに加えて自己尊重につながる自信、達成感、アイデンティティなどを求めます。青年時代からは、社会の中の自立した居場所、意義のある仕事、家庭などを求めます。

 

人生を通して人間は必然的に幸せを求めています。しかも終わりのない完全な幸せを求めています。経験豊かな高齢者は様々な喜びや苦しみを体験したから、この世には終わりのない完全な幸せがないことを知っています。だから高齢者はもっと自然にこの世を越える次元に目を向けて、信仰をもつことが増えます。高齢時代を人生の完成として生きている高齢者なら、人生を良く生きてきた人間の姿を示しながら、若い世代の心にもある終わらない完全な幸せへの憧れを呼び覚まします。効率ではなく、生き方を教えることによって

 

「家庭や若者たちと共同体にとって貴重な滋養を与えてくれる」訳です。