待降節第1主日 2024年12月1日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エレミア書 33章14~16節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙一 3章12~4章2節

福音朗読 ルカによる福音書 21章25~28、34~36節

 

<お説教要約>

待降節第一主日。主の再臨。プリントの第二朗読の注釈にもあるように、待降節のテーマは2千年前の主の到来であると同時に、第二の到来を待つことです。それで、年間主日の終わりと待降節の始めとは関連しています。

主の再臨、栄光を帯びて主が来られるとき、第二朗読で聖パウロが言っているように、「ご自身に属するすべての者たちと共に来られるとき」、これが今日のテーマです。同じルカの21章、今日の箇所の前のところでは、その前に来るいろいろな苦難について語られます。主の再臨が今すぐに来るとは思えませんが、その前の苦難は今の時代にもっと近いように思えます。

 

このようなことを信仰の立場から判断すると、一般的にニュースに出る情報を考えても、注意深く見る人は、今は人類はすごく不安な時代にいると思っています。何が来るか予想できません。4年前のコロナ禍と同じ現象があるのではないでしょうか。海外で少し情報があったかと思うとすぐ日本にも広まり、それは世界中の禍いとなり、人間の普通の生活を揺るがすような状態になりました。こういうことは今後もあり得ます。

 

このような状態は信仰がなくてもわかりますが、それに対して信仰を持つ人はそれにどう備えるべきでしょうか。それを今日の言葉が示しています。とくに福音書の中でキリストは二つの心構えを持つように言っています。「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

聖パウロはテサロニケの人たちの為に、そこの信者がそう生きるように祈っています。「キリストが来られときあなた方の心を強め、私たちの父である神のみ前で、聖なる、非の打ちどころのない者としてくださるように」と祈っています。私たちは自分のためにも祈るべきですし、聖パウロは私たちの為に祈っているのではないかと思います。天国で聖人、守護の天使たちも祈っています。

 

「目を覚ましていなさい。」これはこの時期の合言葉です。年間主日の終わりと待降節の始まりの時。現在の事情をわきまえること、信仰の目で見分けること、分別ある見方が求められています。主は他のところで、それを妨げるものを避けるよう教えています。「放縦、深酒、生活の禍で心が鈍くならないように注意しなさい」と。信仰の態度は常に心を主に向ける態度です。信仰の歩みは自己中心からキリスト中心に成長すること。これは別の言葉でいえば、「キリストを心に留める」と「心をキリストに留める」の両方です。「キリストを心に留める」とは、常に意識すること、キリストを意識して生活することです。「心をキリストに留める」とは愛着、思い、愛情をキリストに向けること。この両方が求められています。

聖パウロが言うように救いは主から来るので、上のことを求めなさい、心を上に向けるとキリストはそこからふたたび来られるのです。私たちを救うために。キリストの警告にある放縦は自己中心的になることです。深酒になると自分のことも周りのことも気づかなくなります。それだけに集中してしまいます。家族のこと、仕事のこと、経済的なこと、人間関係などに集中してしまいます。

 

キリストは他のところで警告して、「思い悩むな、委ね、信頼しなさい。さもないと心が鈍くなる」と言われます。心が鈍くなるとは、フランシスコ会の説明を見ると、「心がふさぎ込むこと」で、それを避けるべきである」と書かれています。そうならないように、それを避けるべきです。英語では生活の禍になるというのは「心に重荷になる」という表現も使っています。目を上でなく下に向け、地上のことだけに捉われてしまう現象ですから、これは目を覚ましている状態とは違います。この点を対比させているのです。目を覚ましている態度、キリストを心に留め、心をキリストに留めて生きる態度と、生活の煩いに縛られてキリストを忘れる態度の対比です。

 

聖書で「忘れる」とは、記憶にないと言う意味に限られません。キリストを忘れるというと、キリストのことは記憶にあってもこの場合にはキリストがまるでいないかのようにふるまい、考え、判断する心の態度です。問題や苦しみの中でキリストを忘れること。ものごとが順調に行けばキリストを意識してキリストを考える余裕があります。しかし人には苦しい時にはそればかり考えてしまう傾向があります。そういう時にこそキリストを思い出し、キリストを信じます、と言いましょう。そういう中でキリストに心を留めるなら、これが目を覚ましていることであり、キリストに導かれるのです。これは何よりも心の準備になります。心を準備する人は救われます。私たちにもキリストは言われます。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をあげなさい。あなた方の解放の時が近いからだ。」