先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。
第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節
第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節
福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節
<お説教要約>
今回は聖マルコによる福音のとても重要な所。構造として、色々なその時までの出来事はここの準備になります。福音書を読んでいくと、それまでの結果、適応、転換、そういう所です。聖ペテロの信仰告白、イエズスはどなたであるか、もっとはっきり示されます。まずイエズスは聖ペテロが告白した様に、メシアーヘブライ語ですからギリシャ語に訳したらキリストー神に油注がれた方という意味です。神に特別に選ばれ、聖別され、力と権威を与えられた方です。そこまでは正しいが、ただ聖ペテロは誤解している。メシアということはどういう意味か、解らなかった。特に主なる神が遣わすメシアは、苦しむメシアであるという神秘を、聖ペテロは解らなかった。告白しても、誤解しながら告白した訳です。同じ質問は現代人に向けられ、おそらく多くの人は、イエズスはキリスト教の教祖だと簡単に答えるでしょう。現代社会でもキリストのことは理解していない訳です。
でも、キリスト者の中でも、そういう誤解の所はあります。なぜかと言うと、主の印象ですが、第二バチカン公会議の前には割合厳しいと言うか、どちらかと言うとキリストの愛と慈しみを軽んじる程、正義を強調した所があった。私はその時代は余り生きていないですが、親の話を聞いてその印象があります。でもその公会議の後で、その反動として逆に、キリストの正義を軽んじる程、愛と慈しみを強調する様になった。でもどちらも誤解です。どちらかと言うと、愛と慈しみを強調する事は真実に近いのでしょうけれど、それも又ずれています。どこが欠けているかと言うと、私達が愛に応える所です。
確かに、主の正義より、愛と慈しみを示してくださいました。神は愛です。正義の神でもあるけど、ある意味愛はもっと主なる神ご自身、三位一体の本質ですけど、ただ私達はそれに応える様に呼ばれている事を忘れてはいけない。人が、神のーキリストの愛を通して示された神のー愛を心から求めて、心からその愛に応え様とするなら、自然にキリストの正義に応える事にもなります。聖パウロが言っている様に愛は悪いことをしません。そこは誤解の一つの所です。
あとはキリストの後の言葉にもあります。ご自分のことを苦しむメシアと言い、でもそれだからこそ、ご自分に従う人も、同じ道を歩まなければならない。それも一つのキリスト信者に対する躓きです、苦しみを受け入れる事です。
神の愛を聞いてーそれはいい知らせです。これを信じる様になったら、いい気持ちにもなるしー感謝すべき事です。でもどうも人間的には、そういういい気持ちのままずっと続いてほしいと思いがちです。苦しみがあれば、主に向かって取り除かれる事を一生懸命願います。取り除かれなかったら、がっかりして反発する様な現象もある。でもそれは避けて通れない所です、十字架の道。本当にキリストに従うなら、キリストが歩まれた道以外に他の道はない、あり得ないです、それしかない。
そういう意味では人は、もっと信仰を深める必要があると感じながら、キリスト者としての成長が必要だと意識しながら、そんなに進歩しない、進まないと自分で思う場合もあると思います。私が思うには、様々な理由はありますが、今日の福音書を見れば、ここに二つの所が考えられます、なぜそう言うように進まないか。一つは心からキリストの愛を求める事なく、心からはそれに応えようとしない事。そういう律法的な信仰、キリストからの恵みを願う信仰。それは自分の為に、自分が持っている自分の為の物を一生懸命求めて、でもキリストの愛そのものをそれ程心から求めていない。そしてまして心からその愛に応えようとする、それは足りない。
でも、それは中心になるのです、それは主が教えた愛の道、神を愛し隣人を愛しなさい。私達がその道を歩めるのは恵みによるのです、まずキリストの愛を求めて、キリストの愛の力と恵みによって心からそれに応えようとするならば、私達も神を愛して隣人を愛する様になる。まず先はキリストの愛から始めなければならない。欠けている一つの印として、人がキリストの愛の教えを守ろうとしてそれを負担に感じたり、嫌がったり、自分に無理をしてまでしようとする心になる事があるけど、やはりキリストの愛を心から求めて、それに応えようとする所が欠けている印だと思う。
もう一つは、人が苦しみを無駄にする所です。私達の信仰の歩みは、キリストに従って、キリストが先に行かれた十字架の道を歩む事。それでなければキリストの弟子になれないと、キリストも言います。でもそれならば、私達が人生の中で苦しい経験をする時は、それへの反応が大事です。もしそれを、ただ主に取り除いてほしい、と願うばかりだったら、その苦しみを無駄にしています。でもその苦しみを機会として受け止めたらーその苦しみを主に捧げて、その苦しみの中で主の愛を求めて、主の愛に応えようとするーその心で苦しみを受け入れて、その中で生きるなら、それは却って本当の自分の成長になる。愛は犠牲を伴います。愛は自分を犠牲にする程、愛します。キリストの言葉の通りー自分の命を捨てる程―キリストの為に、福音の為に、愛の為に、する。それならもっと成長する。人が苦しみを通らなければ、本当の愛する事にならない。苦しみを通してのみ本当に愛する事を学ぶ。そしてキリストが教えた様に、苦しみを通らなければ、栄光、本当の永遠の命と喜びに入れません。