年間第15主日 2024年7月14日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 アモス書 7章12~15節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~14節

福音朗読 マルコによる福音書 6章7~13節

 

<お説教要約>

今回はイエスが十二人の弟子たちを派遣する場面です。ご自分の活動中は十二人を特に弟子たちの中から選んでその人たちを”使徒”と名付け、特別の役割を与えたのです。意味としてはそこでは既にイエスはご自分が新しいイスラエルを作る、という意図を示されています。やはり十二という数字はイスラエルの十二部族のことを思い起こします。そこで新しいイスラエルが始まるのです。

 

 

この十二人の派遣は私たちの宣教、と言うか私たちの使命を考える良い機会になるのです。ご存知ように特に第二バチカン公会議において強調されました。すべてのキリスト者は聖人になるように呼ばれています。そして全てのキリスト者は洗礼と堅信の恵みによって、既にキリストに結ばれキリストにおいてキリストを伝えるという使命もいただいています。ただ伝え方は確かに違うのです。だから宣教とかそういうものは司祭やシスターだけがするものではないのです。全員がするはずです。ただ言ったようにやり方は違うのです。特に信徒の多くの場合、司祭やシスターが行かないような社会のところに行けます。ですから信徒を通してキリストを伝える機会はもっと多くあるのです。でもその伝え方にも違いがあるのです。まずこの十二人の派遣を見ればそういう必要なところも示されているのです。

 

一つは、イエスは二人ずつ組みにして派遣したのです。それはやはり共同体の大切さを強調するところだと思うのです。そういう意味では私たちは一人だけではキリストを伝えることはなかなか難しいのです。それは主が望まれていることではないのです。やはり共同体の中で共同体と一緒に(伝えるのが望ましいでしょう)。その意味ではこの教会という共同体の意味もそこにあるのです。教会に通うことは他のキリスト者と一緒に主を礼拝して賛美して感謝して主から恵みをいただくため、そして他の信者との交わりのためになるのです。でもそこからの力は、あとは主に従って日常の生活の中で恵みを生かしてそれを通して主を伝えることができるように、そういう意味合いもあるのです。家族というものも、それは一つのキリストを伝える場でもありますが、特に家族が全員既に信者の場合はそこはもう一つの信者の交わりの場としてキリストを伝える力がそこからも来ます。

 

あと、キリストは色々なものを持たないように指示しています。例えば「パンも、袋も、帯の中に金も持たず…下着も二枚着てはならない」と。だからそういう禁じらたその意味はやはり主の恵みに頼るように、自分の力だけではなく主に頼るように…。というのは何かキリストを伝えることとか宣教活動といえば多くの場合は何か教会の中で計画を立て、そのためにお金を出して宣伝して人を誘うとか、まあそういう活動も大事だと思うのですけど、ただそればかり考えていたらちょっと主のみ心と違うと思うのですね。何よりもキリスト者一人一人が自分の日常生活の中で主に結ばれて、その中で主を証しするように呼ばれています。その一人一人が自分の置かれた環境で、その関わりの中で…。

 

そして拒絶された場合でも気を落とさないで、がっかりしないで、ただ別のところに行きなさいと主は言われます。でもそこにも一つの誘惑とでも言いましょうか、何かやって失敗したらそれで諦めるとか…むしろ何か失敗してもそれを主に委ねそこから何か学ぶ、というのであればそのほうが良いのです。諦めてはならないのです。でもこれは条件っていうか要素です。やはり主を伝えることは心…、それはどちらかというと今日の第二朗読に示されています。聖パウロが話しているところです。聖パウロはこのエフェソの信徒への手紙の中で一番初め、主の恵みに感謝して賛美しています。そしてその恵みの偉大さ、私たちに与えられた恵みどれほど大きなことか、神の子をして頂く恵み、主に選ばれた恵み、そしてそれは聖なるものになるためにそういう目的にも感謝しています。そこは一番の鍵だと思います。というのは福音と言えばよい知らせです。福音を通していただいた恵みを意識していなければ、それは伝えることもできないのです。よく言われている福音の喜び、そこは一つ今日顧みて自分の生活を、信仰の歩みを振り返る良い機会だと思うのです。信仰の喜びというのを自分が本当に経験しているかどうか、一つ考えるところです。わからなければどうやってそれを経験するか、そういう信仰の成長、まあ歩みの中のものですけど、それを求めることが必要です。その時は何よりも主の恵みの偉大さなどをもっと悟るように、そういうことを主に願うことはとても良いことです。

 

主は私たちを愛しておられます。無限に。そして愛する人はいつも愛している相手が自分の愛に気づいてほしいものなのです。主の場合も違わないです。同じです。主もわたしたちにご自分の愛に気づいてほしいのです。だから私たちのほうからそれを求めることは主に喜ばれることなのです。そういう風にキリストの愛にもっと気付くなら、もっと意識するなら、自分もキリストを信じることの有難さ、喜びをもっと経験するようになります。そこからキリストはそういう恵みのことで他の人も同じように経験してほしいと思うようになるから、そこからもっと自然に主を伝える力が出てきます。些細なことの中で簡単なことの中で、主の愛を感じる、そういう心になったら主の導きによってどうやってそれを伝えるかも教えてもらえます。