年間第13主日 2024年6月30日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 知恵の書 1章13~15、2章23~24節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 8章7、9、13~15節

福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節

 

<お説教要約>

今回の福音書はキリストの二つの奇跡の話です。第一朗読では特に、会堂長の娘を生き返らせた奇跡を中心に考えたいと思います。この奇跡は先週読んだ箇所に関連しています。そこでは主は、ご自分の自然に対する力を示しました。嵐を静めたのですが、急に静まることはありえず、そこで主の力が示されたのです。万一そうしなかったとしても、時間がたてば自然に静まる現象です。今回は、主は娘を生き返らせた奇跡によって、ご自分の死に対する力を示したのです。しかもそれは自然に対する力を越えています。死は嵐のようなものと違って、自然に元に戻るわけではないのです。そこではもっとはっきり自分の使命、福音を伝えているのです。キリストは死に対する力を持っている方で、人間の完全な救いを成し遂げる方です。それもご自分の復活によって示されたのです。

 

この「死」に対しては、もっと深い意味があります。それは今日の第一朗読に示されていて、はっきりとこう断言されています。「神が死を造られたわけではない。」最初の計画にはなかったものです。むしろ「悪魔のねたみによって死がこの世に入った」と説明しています。アダムとエバが罪を犯さなかったら、ずっと生きていられた。体の死もない状態でした。「不滅」と第一朗読でも言っているように。悪魔は人間の受ける幸せを妬んで自らその自分の幸せを拒んでしまったけれど、自分が拒んだから他の人もそれを受けてほしくないというような妬みで、人間を誘惑して陥れたわけです。そしてここにも続くんですね。「悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」ここでは聖パウロが説明しているように、「罪によって死がこの世に入った」のです。そして罪にとどまる人は死んでしまって、しかもそれは体の死だけでなく永遠の死、黙示録で言われている第二の死、地獄のことです。悪魔の仲間になっている人とはどういう意味かと考えたら、第一朗読では省かれたところがあるんですね。それを知恵の書の著者が説明しています。悪魔の仲間になった人は、こういう考えを持っていると言っています。「我々の一生は短く労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知る限り陰府から戻ってきた人はいない。」

 

現代人の中でも、死んだらどうなるのかわからない、だってあの世から戻ってきた人はいないからという人は多いと思います。「我々は偶然に生まれ、死ねばまるで存在しなかったかのように、鼻から出る息は煙にすぎず、その考えは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。」そういう思いを持っている人は現代にもいます。死んだら完全に無に還る。でもそのような考え方をすると、自分の人生には究極的な責任はないことになります。この世に生きている間の責任だけ、そしてそれは社会に生きる責任、犯罪を犯せば罰があるけれど、犯罪さえ犯さなければ後は別に構わないと。そこから不自由なこととか困ることとかは別にない、と思う人は現代でも多い。罪という言葉を聞くと犯罪と受け止めて、犯罪さえ犯していなければ、いい人で罪のない人だと思う。こういう考え方をする人は神のことも福音も認めない。それはもっと大きな問題です。

 

でも、聖書では神様から離れて神様を拒むことは、もっと深い意味で罪です。そのためには、罪と死の関係がある。主なる神はすべての命の源です。人間は神様に結ばれている限り、親しい交わりの関係にある限り、主の命によって命が支えられて死ぬことはない。でも主から離れたら、命の源から離れたら、もう死ぬことになってしまう。キリスト自身が警告しているように、「体を殺すだけの人は恐れるな。むしろ体も魂も地獄に投げ込むことのできる方を恐れなさい。」それは神様の前に出たときの自分の人生に対する責任、この世で警察などから責任を問われることが全くなく何の犯罪歴もなかったとしても、死んだら主の前に出て私たちはみな裁きを受けます。人生をどう過ごしたか、その責任を問われます。それはキリストの教えているところです。キリストのなさるわざには、もっと深い意味があるのです。死に対する力を示したことで、罪に対する力も示された。そして、ご自分の死をもって私たちを罪と死から救ってくださったのです。

 

私たちの体は死にますが最終的には復活するので、そこで罪を赦されて主に結ばれた者は永遠に生きる体に復活して、永遠の主の喜びに入ります。主はそのために来られたのです。人間に永遠の命を与えるために。永遠の死から救って永遠の命を与えるために。この世の死を越えることです。私たちはまずそのことを心に留めて、何があっても主から離れないように気をつけるべきです。私たちの救いは、すべて主との関係にかかっています。私たちが主を捨てない限り、主に見捨てられることは全くないです。それで救われます。もちろん、信仰は試されます。この世だけの人々、私たちを退けて現生的な考えだけで生きるのではなく、キリストが示した人生の目的、「神様との親しい愛の交わりに入って永遠に生きる」という目的を、いつも心に留めてそれを目指して生きるように、私たちは呼ばれています。