年間第11主日 2024年6月16日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節

第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節

福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

 

<お説教要約>

今日の聖書の箇所にはキリストの二つの短い例え話があります。その例え話の背景について聖書ではそんなに詳しく説明されていないです。一応研究者の話では、おそらくイエズスの活動に対する疑いがあって、それに答えるものだろうと思われています。

イエズスが来られた時は、人は多くの期待を持っていました。特にイエズスは奇跡など目覚ましい行いをしたなら、もっと人の期待を寄せられたのです。でも、その期待はご自分の使命とちょっと違うところもあったのです。当時の人は、世界全体の大きな変化を期待していたみたいです。例えば、ユダヤ人の中から罪人を取り除いて、清められた神の民としてもっと主に忠実な民になる働きとか、またユダヤ人をローマ人の支配から解放して、イスラエルを大きな国、力強い国にすると言うような期待があった。

 

でもそれと違って、イエズスは罪人を取り除くと言うより罪人と付き合ったのです。回心して主に立ち返るように…そういう働きでした。大きな社会の変化とか政治的、ローマ人に対すること、それに何の働きも示さないで、むしろひたすら、人ひとりひとりに神の国を伝えて、その霊的信仰の活動だけでした。それだけだったら、物足りない、小さく見える、大したことが無いという疑いもあったようです。それに対して主はこの例えで答えます。

 

まず、今は確かに小さくみえる、でもやがて大きくなる。それは辛子種の例えです。小さい始まりでも将来はすばらしいものになる、そういうことです。それは人間の働きより主なる神の働きによります。それは最初の例え、種が自分で育つ例えです。農民は環境を整える、耕して、種を撒いて、水をやって、世話をするのです。農民は種を成長させるわけではない。農民が成長させられるわけではない。種自体が成長する力を持っています。イエズスが言うには、神の国はそう言うようなもの。神の国自体は、成長させる力、成長する力を持っています、自ら。神の御言葉の力、それにもあります。そういう確信をもったなら、将来は確実です。神の為さることは間違えもないし妨げる者は一人もいない。将来に対する確信を、ここでキリストは私たちに教えている、それは神様の働きに対する確信です。それは、私たち現代人にとっても大切な教訓だと思います。

 

現在は確かに悪の力が強くなっています。色々な問題点、心配事は沢山あり、実際にそれは悪魔の働きでもある。悪魔払いの奉仕をしている司祭達の話を聞くと、60年位前までは、取り憑かれた人のために祈って、悪魔払いの祈りを唱えたら、大体1週間以内に解放された。今は同じ祈りをしても、人が4年間も祈り続けてもなかなか解放されない。それだけ悪魔の力が強くなったわけです。なぜ強くなったかというと、それだけ人間の社会全体が堕落して腐敗している、もっとも大きい罪を犯しているからです。人間は罪を犯せば、犯すほど悪魔の影響を受け易くなる。罪を犯すことによって悪魔に似た者になります。その影響を受け易くなるから、その悪魔の、その人に対する影響力が強くなる。社会的な者になれば、社会全体に対する影響力も強くなります。

 

ここで主が仰ることは、主なる神のご計画は必ずその通りに実現する。妨げるものは何一つない、それも現在に見えることです。聖パウロが言うように「罪が増したところに恵みはなお一層満ち溢れました」。現代もそうです。

 

主の働きの恵みは、現代も一杯、悪がそれだけ力が強くなった中では、恵みは更に強くなった。例えば一つの具体的な例としては、イスラム教はキリストをなかなか受け入れない。ずーっと歴史を通してイスラム教徒がキリストを受け入れることは殆どなかった。現在はキリストご自身がイスラム教徒の夢に出て、沢山のイスラム教徒にご自分を示し、かなりの数のイスラム教徒がキリストを信じて洗礼を受けてキリスト者となる。今までなかった現象で、そこに主の働きがもっとはっきり示されました。人間の働きでなく主ご自身の働きが現れている。それは又一つの希望をもたらします。例えばイスラム教徒と同じ様に、日本でもキリストをなかなか受け入れないが、主がイスラム教徒のためにそこまでなさるなら、願わくは同じ様な働きをなさって下さるとお祈りしています。

 

私たちは大変な時代を生きているが、その反面今までなかったチャンスもある。主はもっと豊かに恵みを注いでいるから、人は人さえ望めば前の時代よりもっと簡単に聖人になれます。主の豊かな恵みです。それは私たちに与えられたチャンスでもあります。危機という言葉を使うのですが、危機は危険と機会の字でもある。悪が強くなっているからキリストが離れる可能性は高くなったのですが、その反面主の恵みは一層満ち溢れているから、私たちは前の時代より聖人になる可能性は高くなった。私たちがそれを望むことは大切です。それは聖パウロが示している心です。「体を住処としても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」それは、それこそだと思う。私たちは聖パウロと同じ様な心を持つなら、私たちはもっと聖パウロに似た者になる。私たちは聖人にもなれます。