キリストの聖体 2024年6月2日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 24章3~8節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章11~15節

福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節

 

<お説教要約>

今日は、ご聖体の祭日です。朗読からは、どちらかというとキリストの御血についての教えだと思えるし、ご聖体というと私たちはキリストの御体のことを考えると思いますが、ご聖体の秘跡というとキリストの御血のことでもあるのです。その意味で、今日は特にキリストの御血について考える機会になると思います。最後の晩餐でご聖体の秘跡を制定されたとき、キリストはカリスを渡して、「これは多くの人々のために流される私の血、契約の血である」と言われました。この言葉には深い意味があるのですが、今の人たちにはちょっとわかりにくい面もあると思う。もうちょっと考えてみましょう。

 

まず、多くの人のために流されるご自分の血です。私たちのためになる。多分一番理解し易いのは、こういう例ではないでしょうか。人を助けてあげたとき、その最中で助けた人自身が殺されたりして亡くなる。相手を救うために命を捧げたと言えます。このことは今のキリストの言葉につながるんですね。旧約聖書の時代からずっと言われていたことですが、「生き物の命は血の中にある」と。それは本当に深い思いだったので、今も昔もイスラエル人は血を食してはならないと言われてきたのです。命は血の中にあり、主なる神からのものだから神聖なものです。だから、イスラエル人は今も動物を殺したらその血を流してしまわないと、その肉を食べないのです。血は尊いものだからです。人を救うために自分の血を流したといったら、自分の命を捧げたのと同じ意味になるのです。キリストの場合もそうですね。多くの人のために流されるご自分の血、それは十字架上で私たちのために命を捧げたことを指しています。私たちのために血を流したことと同じ意味になるのです。

 

それほど尊いものであって、イスラエルの昔の動物のいけにえの儀式もそこから来るのです。私が聖書を教えていると、特に旧約にでてくるいけにえの儀式は多くの人にはわかりにくいと感じます。でも、ここでは説明がある。「主なる神は言われます。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」神ご自身から与えられた命は、動物でも人間でもその血にある。だから昔、人間が罪を犯したときには動物の血を流してそれを祭壇に振りかけた。今、祭壇は主なる神の象徴です。神に捧げたという意味です。主なる神はその動物の命を罪を犯した人間の代わりに受けてくださることで、その人の罪を赦します。しかしそれは、旧約時代の動物の血によるものです。新約においては今日の第二朗読にあるように、キリストご自身が十字架によって私たちのために償いの儀式の代わりになられたのです。これは昔の動物のいけにえの儀式より、はるかに大きな効果、恵みがあります。動物は代わりという感じですが、キリストご自身はご自分の血を捧げることによって、私たちの罪の赦しという恵みを備えてくださったのです。主なる神が動物の血を受け入れられるのなら、ましてやそれよりはるかに尊い、ご自分の独り子の血を受け入れられるはずです。神様からの自然の命の血だけではなく、ご自分の独り子の血、人間となられた神の子の血であるから無限の価値があるのです。キリストの血には、人類のすべての罪、最初の人間から最後の人間までのあらゆる罪を償う力があります。第二朗読で説明してある通りです。それによって新しい契約が成り立ったのです。第一朗読にもありますが、最後の晩餐の時にキリストは、「多くの人のために流される私の契約の血である」と言われました。モーセも同じような表現を使っています。その時代は動物の血だけだったけれど、その半分を祭壇に振りかけて主なる神の象徴とし、もう半分は民に振りかけて契約の血であると宣言しました。どうやってそうなるか一つヒントになることとして、一般的に人は血のつながりは強い絆と感じる。血の儀式によって、神と人間は象徴的に血のつながりに入るのです。神とイスラエルの絆によって、契約が結ばれるのです。実際にその後よく、主なる神をイスラエルの父と呼ぶことがありました。子どもみたいに。そういう血のつながりのような関係になった。その契約を通して。

 

第二朗読で説明しているように、「キリストは新しい契約の仲介者である」と。動物の血でそうならまして神の御独り子、人間となられた神の血が私たちと深い絆を結ぶことになるはずです。私たちはキリストによってそういう風に浄められて、キリストにおいて神に結ばれる者になります。私たちはまず第一に、その偉大な恵みを心に留めるべきです。それは私たちの身に余る恵みです。私たちは、このような恵みをいただくには何もしていない。人間には何もできない。ありえない恵みです。そこまでの力はない。ただただ恵みです。感謝を込めて、この恵みは自分の身に余る恵みであり、どれほど自分は全くの恵みとしていただいているか、そういう感謝と謙遜の思いでご聖体をいただくことは一番ふさわしい態度です。その態度は、具体的にご聖体をいただくときに示されると思います。ご聖体をいただくために手を出すと、司祭が手のひらにご聖体を載せます。その時司祭は「キリストの御体」と言い、皆さんは「アーメン」と応えるんですね。応え忘れる人もいるけど…。それは一つの信仰告白です。司祭はキリストの御体を示して宣言します。そしてそれをいただく人は、「その通りだ。信じます」という意味で「アーメン」(元のヘブライ語からくる言葉)と言うのです。特に今日はこの聖体の秘跡の恵みの偉大さを意識して、謙遜と感謝の心を込めて、ご聖体をいただくときには「アーメン、その通りだ。信じます」と。そうしたら私たちのご聖体に対する思いも、それだけ強くなると思います。恵みももっと豊かにいただけます。