三位一体の主日 2024年5月26日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 申命記 4章32~34、39~40節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章14~17節

福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節

 

<お説教要約>

今日は、三位一体の祭日です。三位一体という私たちの信仰の中心的な神秘です。主なる神は、三位、すなわち、父と子と聖霊であると同時に一体、すなわち、唯一の神であります。唯一の神であることは、今日の第一朗読でモーセもすでに宣言していることです。上の天においても下の地においても、主こそ神であり、ほかの神がいないことを宣言しています。特に旧約時代を通して神様はイスラエル人に教えたことです。周りの民族はみんな多神教の人ばかりでしたから、なかなか大変でした。イスラエルだけ一神教の思いを持っていることは、奇跡的なことでした。神様がそこまで示して下さらなかったら、そのようにならなかったでしょう。

 

でも、新約に入りキリストが来られたら、キリストご自身はモーセが言ったことをご自分も宣言しました。主なる神のほかに、神のないことを本人も宣言しましたが、それと同時に、三位、父と子と聖霊のことも教えました。今日の福音書を見れば、弟子たちを派遣するときは、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように命じたのです。そこに三位一体も示されているのです。父と子と聖霊の名前、三位をあげながら、その名によって、洗礼を授ける。日本語では伝わりにくいですが、英語訳やほかの言葉で見ると、名は、単数の名詞です。もし父と子と聖霊が三つ違うものであったら、複数のはずです。でも単数です。やはり父と子と聖霊でありながら、唯一の一人の神様です。それは三位一体の神秘です。この神秘を神様が示されなかったら、私たちが知る可能性はなかったのです。この神秘を信じているのは、キリストが示してくださったからです。どうして本当かわかるかというと、何よりもキリストの復活によるのです。というのは、キリストがまことに体を持って復活されなかったら、福音書にあるように弟子たちに現れなかったはずだし、弟子たちは派遣され、宣教に出かけなかったはずだし、そうすると、他のキリスト信者、教会も生まれなかったはずです。そこで、途絶えたはずです。教会が存在していること自体は、キリストがまことに体を持って復活した証拠です。そこで、私たちは真実だとわかります。真実だから、復活の意味はキリストが本当に神様から遣わされた神の子であると証明します。神として欺くことも欺かれることもありえない。神としてキリストが話していることすべて真実です。私たちが信じるに値する信ぴょう性、そういう信仰は、全く真実の神が言われたことという理由で信じるのです。真実の神は完全に真実のことだけ言われるから、そこで信じられます。全く正しい神が命じたという理由で、それは全く正しいものだと信じて、それを行うこと、それも信仰です。

 

特に第二朗読の聖パウロの手紙にあるように、信仰によって私たちは命を得ます。聖パウロが説明しているように、私たちは聖霊を受けて、聖霊によって主なる神を父と呼ぶ事ができるし、キリストと相続人になって、キリストの栄光に与るものとなります。それは救いです。信仰による永遠の命、永遠の喜びです。というのは、救いは神様と一致することにあるのです。人間の場合でも人の思いと心は一致しなければ深い親密感は生まれないのです。神様と人間の間でも、同じ思いと心がなければ一致せず、神様の命にも与ることはありえないのです。神様ご自身は人間の思いと心にご自分を合わせることはありえなく、完全で変わらない方です。人間が神様の思いと心に自分を合わせるしかないのです。合わせると救われます。合わせないと救われないのです。だから信仰によって私たちは救われます。信仰は私たちの思いと心を主なる神の思いと心に合わせるものです。でもその信仰を一度いただいたら、それを最後まで保つことが肝心です。キリストも警告しているように最後まで信仰を保つ人は救われます。

 

今の時代で、信仰から離れることを考えてみると、よく言われているあらゆる宗教は山の様々な登り道みたいで結局同じところに行き着くという宗教に関する思いの一つですが、それははっきり言って過ちです。どうしてその人はそのように考えたいのかというと、信仰は戦争の元にもなるという歴史の中で例もあるのですが、世界の平和のために宗教を同じように見、同じものとみなす必要があると考えています。気持ち的にそこには魅力がありますが、実際には過ちです。

 

一つは人間が平和になるには、人間の間で同じ思いと心を持つ事です。そうすると互いの平和を保つ事ができるのです。人間の思い、心を一つにするために、人間の様々なバラバラな社会の次元ではありえないので、超えているところで一致するなら、そこで互いに平和になります。宗教は根本的に人間の超えるところに目を向けています。目を向けている宗教はみな同じだとみなしても、実際には同じではない、様々なことを信じて行っていることは事実です。だから、人間を超えるところに対する思いと心がバラバラなまま、人間の間に平和ができると思ったのは、大きな勘違い、過ち、欺きです。決してあり得ないのです。実際にキリスト信者にとって、そのような思いは、私たちにキリストを捨てさせることになるのです。キリストは福音書で弟子たちに、出かけて、洗礼を授けて、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい、全ての民を私の弟子にしなさい。と言われました。同じようにみなすことは、キリストをブッダとかムハンマドとか他の宗教の教祖と同じようなものに引き下げることになるから、本物のキリストから離れてキリストを捨てることになります。それは決して、キリスト信者としてはできないのです。それは人のためにもならないのです。

 

もう一つの過ちは、真理より人の気持ちを優先させることも、過ちです。真理こそ人のためになり、幸せに導くことです。真理を伝えることによって、人を本物の喜び、救いに導くことができるのです。人の様々な思いをそのまま気持ちのために認めたら、人を不幸に残しておく感じで、本当の愛ではないのです。愛は平和の源にもなるのです。

 

そのために、今日の祝っている三位一体の神秘はすごく重要です。築かれた信仰を堅く守って愛を込めて真実を人に伝えるように呼ばれています。それによって私たちは世界の平和に役立つものになります。