主の昇天 2024年5月12日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 1章1~11節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~13節

福音朗読 マルコによる福音書 16章15~20節

 

<お説教要約>

今日の祝いは主の昇天です。復活節の終わりに二つの大きな祝日、昇天と聖霊降臨が祝われます。これは復活の神秘の完成と言ってもよいと思います。主の昇天のことを私たちは毎週「信仰宣言」の中で宣言しています。「キリストは天にのぼり、父の右の座について、生者と死者を裁くために来られます。」昇天の後のこともこの神秘に含まれています。「天に昇って父の右の座に着き、生者と死者を裁く」とは最後の審判の時に生きている人と死んでいる人の審判のことです。

 

今日の朗読を見ると、それがわかります。福音書のご昇天の場面でも、「主は天に上げられ、父の右の座に着かれた」とあります。聖パウロも「主はもろもろの天よりもさらに高く昇られた」と言っています。そこからすべての人に賜物を与えてくださいます。再び来られることも第一朗読の終わりにあります。「イエスが離れ去って行かれると、彼らは天を見つめていた。」すると天使が現れて言いました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様でまたおいでになる。」その意味は、父なる神の右の座に着かれたと言う表現で、主の権能を指すものです。

 

マタイ福音書は終わりのところでイエスの言葉を残しています。「私は天と地の一切の権能をさずかっている」と。これは賜物を与えて下さることです。主は御父の右の座にあって弟子たちの宣教において共に働き、真実をしるしによって示されました。聖パウロが言う賜物、最高の賜物は聖霊です。これは第一朗読に見られます。主は弟子たちに聖霊が降ることを約束されました。私たちはそれによって力を受け、その力によって宣教できるのです。私たちも主から賜物を頂いて、何よりも聖霊によって、務めを果たせるように力と導きを受けています。

 

私たちへの教訓はむしろ聖パウロのコロサイの信徒への手紙に良く伝えられています。「あなた方はキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。地上の物に心を惹かれないように。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなた方の命、キリストが現れるとき、あなた方もキリストと共に栄光に包まれて現れ出るのです。」

 

これは私たちに対する意味を説明しています。私たちが祝っている神秘について、聖パウロも三つのことに触れています。キリストが復活されたこと、父なる神の右の座に着かれたこと、そして、キリストが現れるとき、私たちもキリストの栄光に包まれますが、それはキリストの再臨であると。それに生きるために、神秘に生きるために、上にあるものに心を留めなさい。私たちに救い、希望を与えてくださるキリストは今、上におられます。神の右の座についておられるので、上にあるキリストを求めるのは私たちの務めです。地上にあるものに心を惹かれないようにしなさい。と。

 

この世にいる限り、生活のためには地上のものに心を使う必要はありますが、生活することと心が惹かれることとは違うのです。上にあるものを求める人は生活しながら、心は特にそれに執着しないしそれが中心になりません。キリストが中心です。頑張って生活し、暇の時にちょっと祈ると言うような信仰のあり方より、キリストを中心にして此の世の生活を送っています。キリストのために家族を守り、周りの人を思いやります。いろいろな務めはキリストの為であって自分の為ではなくなります。すべてにおいてキリスト中心になります。

 

しかし私たちは、多くの場合、原罪の結果、自己中心で傲慢なので、人の為にしながらも自分の為に生きてしまいがちなのです。聖パウロが言うメッセージを大切にし、さらに信仰を深めるなら、この世においてすべての周りのことに捉われることなくキリスト中心に生きるようになります。まず心に平和を持つようになります。いろいろなことに心を捉われて悩み心配するなら平和がありません。何よりもキリストのことを求める人は他のことにあまり煩わされません。まずこの世において。

 

そして聖パウロが言うように、キリストが現れるとき私たちもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。その酬いです。それが私たちに与えられた希望です。この世を越えた希望です。今、厳しい時代に生きる私たちに最も重要なことです。上にあるものを求めているかどうかによって違いがもっとはっきりと出てくることでしょう。