四旬節第4主日 2024年3月10日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 歴代誌下 36章14~16, 19~23節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 2章4~10節

福音朗読 ヨハネによる福音書 3章14~21節

 

 

<お説教要約>

今日は四旬節第4主日で、教会の中で喜びの日です。私たちが記念する救いの神秘、主の受難、死と復活の祝いが近づいています。四旬節の歩みはもう半分を過ぎました。それに伴って今日の大きなテーマは神の愛です。

 

福音書では有名なところが読まれました。「神はそのひとり子をお与えになるほど世を愛してくださった。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とヨハネは書いています。「神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」という、救いの業に見られる神の御計画です。とくに主の受難と死と復活にそれがよく見られます。聖パウロも「あわれみ豊かな神は私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に就かせてくださいました...。これは神の賜物です」と神の愛を強調しています。これはとても有難いことで感謝すべきです。主の愛を賛美すべきです。事実、教会はそのようにしています。

 

しかし、神がそこまで私たちを愛してくださっているのに、どうして教会が教えているように地獄があるのでしょうか。私は小さかったので覚えていないのですが、アメリカの中で以前は地獄のことはよく話されたそうです。しかし、バチカン公会議の後では、正しいことですが、神の愛が強調され、同時に地獄はあまり話されなくなりました。

 

でも教会は地獄の存在を認めています。では地獄の存在と神の愛をどうやって並べて考えることができるのでしょうか。今日の福音書はこれについて答えにもなっています。「悪を行うものは皆光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて光の方に来ない。」ここで悪を行う者とは単なる罪びとだけではありません。罪びとが悪をみとめて神の方に来るなら神は喜んで救われます。そのために主はこの世に来られたのです。

 

ここでいう“悪を行う者”とはもっと頑なになっている人のことです。悪を行うように生きている人。そのような人は神の方に来ません。ここでいう光は、聖パウロも言っているようにすべての人を照らす光、救いのためにこの世に来られたキリストのことです。光を憎む、これも大事なポイントです。光を憎む気持ちとはどんなものでしょうか。経験がないとしても想像できることです。もし憎む相手がいたとすればその人を見るだけでつらい思いをします。その人が部屋に入ってきたら、できるだけ早く逃げてしまおうと何か手段を考えるでしょう。

 

では、光を憎む、つまりキリストを憎むようになったらどうなるでしょうか。神がそういう人を無理矢理に天国に連れていったとしても、その人は光の前にいるのはつらくてたまらないでしょう。その人にとっては天国も地獄になってしまうでしょう。人が天国で苦しむならその人を天国に連れていく意味がありません。光を憎み光の方に来ない人、行きたくない人、神から離れた人の為にはほかに場所があるのです。それが地獄です。でも、どうして光を憎むのでしょうか。悪を認めるなら赦してもらえるのにそれを望まないという、人間はそこまで頑固になる可能性があるのです。

 

或るアメリカの女性の話を思い出します。その人は自分の夫に暴力を振るわれてひどく傷つけられました。しかし、信仰の深い人だったので、熱心に祈り、恵みによってやっと夫を赦すことができました。それで夫に、「あなたを赦します」と言いました。本当なら夫は解放されてホッとして、喜ぶはずです。しかし彼は返って怒ってしまったそうです。なぜでしょうか?私が思うには、その夫は自分が悪かったことを認めたくなかったからです。ですから赦されていると言われるのは“大きなお世話”で、侮辱にも聞こえたのです。自分が赦されていると言われると、責められているような感じになったのではないでしょうかと思います。

 

そういう心になった人を神はどうやって赦すのでしょうか。神は、人が改心さえすれば喜んで、どんな罪も赦してくださいます。イスカリオテのユダは多分、人類の中で最大の罪を犯したのでしょう。神の子を裏切って売ったのですから。でも神は、もし彼が改心したなら喜んで赦したでしょうと思います。キリストは、ご自分を裏切ったことよりも彼が絶望して、赦しを求めなかったことを悲しまれたのではないでしょうか。赦そうとする神は人間がそれを侮辱であると考えるなら、どうやってお赦しになるでしょうか。

 

そのような心境で死んだなら、人はずっとその状態にいることになります。地獄にいる人はずっと神を憎んでいます。それは変わりません。それはすごい地獄の苦しみです。わずかでも誰かに憎しみを抱いたことがあれば、人を憎む気持ちがわかるでしょう。憎んでいる人自身の気持ち、そういう心の状態になる。その意味で私たちは、神が私たちを地獄に落とすのではないかということを恐れなくてもよいのです。むしろ自分が頑なになること、そのような自分のことを恐れるべきです。

 

今日のメッセージは、神の愛に目を向けるように、その愛に感謝しながら、私たちもその愛に応えようとすること、それが回心であるということです。回心は自分の力によるのではなく、神が、愛によって私たちのために御子を死に渡すほどのことをしてくださったことを思い、その愛に応えることです。