主の公現 2024年1月7日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節

福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

 

<お説教要約>

 今回の祝いは主の公現、漢字から見ても「主を公に現す」という祝いです。それは教会の伝統的な理解によって、この博士たち3人はユダヤ人以外のあらゆる民族の代表としてキリストの誕生を拝みに来た、全世界の人々がキリストを求めるようになると全世界に知らされた、公に現されたという意味にとらえています。今日の集会祈願にあるように、「すべての民の光である父よ、あなたはこの日星の導きにより御ひとり子を諸国の民に示されました。」そこに示されているのは、主はユダヤ人をはじめ全人類の救いのためにキリストを遣わされたということです。ユダヤ人に約束された救い主だけれど、全人類のための救い主。それは教会で今日祝っていることです。

 

ただ、今でもキリストがすべての人の救い主と言うと、それに対して反発というか誤解というか納得しない人はかなりいるわけです。その理由は様々だと思いますが、私が感じることの一つは、宗教においては真実というものはない、宗教はそれぞれの人の好みであるという位置づけというか見方があることです。そのことが特に印象に残った経験として、前に鎌倉であった宗教者会議で、神道、仏教、キリスト教の人たちと少しの時間話し合う機会があった時に、なんとなく私は好奇心から、ある若い神主にどうして神主になりたいと思ったのか聞いたんです。その人は自分は大きくなったら何か宗教に関する仕事に就きたいと若い時から考えていて、まあ自分は日本人だから一番日本で伝統が長く根付いている神道がいいんじゃないかと考えてそれを目指して神主になったそうです。でも、そういう考えは宗教には真実がないということを前提としていて、たぶんその人にとっては宗教的な真実があるということに思い至らなかったんだと思う。だから自分の好みとか別の基準で選ぶ。この人の場合は自分の民族のことを考えての選び方です。そしてもう一つ、他の人の話を聞いていて私が引っかかるところは、この宗教や信じていることは正しい普遍的だと思うと、そう信じていない人に対して失礼になるんじゃないかという思いです。他のことを信じている人は別に悪い人ではないから尊重すべきだという思いの人もいると思うんです。それは現代人の感じ方といえるかもしれない。ただ考えてみれば、日本でも科学においてはそこまで言う人はいないと思うんです。科学はもともと日本で始まって日本で最初に発達したことは事実です。それなのに割によく受け入れていると思う。科学は現代人にとっては一番権威のあるものだと思う。科学はもっと普遍的であると多くの人は認める。科学においては人の意見や好みではなくそれを超える真実を見つけて示すので、カトリック教会としては宗教として同じことが言えると主張します。宗教の分野でも真実はあるのです。真実の神、真実の光、そういう表現は聖書にも見られます。

 

ただ、もう一つの側面もあると思う。自分は何を信じているか、神はどうであるか…を皆それぞれ自由に考えるなら、皆それぞれ自分に合う神、自分に都合のいい信仰と神を信じてもいいことになります。ここは大事なところです。人が自分の好みに合わせて自分に合うようなものを探しているなら、真実の神がおられるという考えは嫌がるでしょう。普遍的なもの、自分が選ぶのではなくて主なる神が自分を選ぶ、真実の神に自分を合わせるということは嫌がると思うのです。

 

しかし、人間は真実を知るために造られた者です。それは確かに聖書にも示されています。哲学的に考えても、人間の発達を見ると小さい子はいつもどうして?どうして?と説明を自然に求め、本当?とさらに聞く。人間には小さい時からそのように真実を知りたい心がある。そういう力もある。現代の科学はその一つの表れです。人が真実はどうであってもいいと考えたら、現在の科学は始まらなかったでしょう。でも、人が真実を知りたいという心を自然に本性的に持っているなら、科学より大切な分野である真実の神、死後の世界、人間は死んだらどうなるかなど、そういうすごく重大なことに関しても真実を知ろうとするはずです。そうしないと本人自身が一番損をすると思います。

 

そこでパスカルの賭け事のような話がでてきます。彼はフランスの思想家でした。特に信仰に関すること、中には賭け事のような感じのものも書いたんです。それほど確実に知らなくても、実際に真実の神がおられて人間が天国に行くか地獄に行くか決められると考えて、そちらに賭けた方が賢明だと主張してこう論じます。もし人が天国や地獄があると証明できなくても、真実の神がおられて裁きを受ける方に賭けて、亡くなってその通りになったらその人は救われて天国に行くでしょう。たとえ間違ったとしても、誰かが言ったように人間は死んだらその存在は無に還るというなら別に損することはない。自分が間違ったこと自体、自分は知らない。無に還ったら意識も何もないから。でももし、真実の神がおられるのに天国も地獄もないと主張してその方に賭けたら、もっと危ないのです。もしその通りだったら損することも得することもないけれど、もし間違ったら、ないと言った真実の神と天国も地獄もあったら、その人はすごく損します。おそらく地獄に落ちて永遠の苦しみに入る。パスカルは、はっきりわからなくても証明できなくても、真実の神はおられて私たちを裁く方で私たちを救いたいと望んでおられて、それを拒んだら地獄に落ちる方に賭けた方が賢明だと言うのです。

 

今日の主の公現の祝いに対する感想でしたが、いずれにしても、全人類の救い主であるキリストが公に現わされて、教会はそれを信じて、それはすべての人、どんな宗教の人もどんな考えの人もすべての人の完全な救いと喜びと幸せになるから、そのメッセージを今日に至るまで全世界に伝えようとしてきました。