主の降誕(日中のミサ) 2023年12月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

 

第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節

福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

 

 

<お説教要約>

今日は主の降誕を祝います。まず主の降誕おめでとうございます。今回は、また特に日中のミサについて、朗読に基づいて話したいと思います。ここで一つの大きなテーマは、語る神です。それは、聖書で示された主なる神の一つの特徴です。他の宗教を見れば、語る神はそんなにいないです。

 

古代ギリシャ人だったら、神の言葉を聞くより、神を見ようとしたんです。中にいる人は、何かの言葉を求める場合は、伺いを立ててとか、占いとか、そういう感じで自分に有益になる物を知ろうとして、将来のことの徴など求めたことがあります。でも聖書で示された主なる神は違います。聖書で示されている主なる神は、もちろんその人が求めていることに対して、応えて下さるのです。特に人が救いを求める時、救って下さることが何回もありました。でもそれだけではなく、主なる神ご自身が語りかけます。ご自分を求めることだけではなく、ご自分の方から人に求めることもあるのです。それはこの朗読にあるように、特に第二朗読を見れば、「神はかつて予言者達によって多くの形で、また多くの仕方で先祖に語られたが、この終わりの時代には御子によって私達に語られました。」

 

そしてその語られたこととは、根本的に、主なる神が人間に伝えようとされているところは自分が人間を愛していること、そして求めることは人間にその愛に応えて欲しいというところです。そしてそれは預言者を通して、イスラエルの歴史を通して、色々な形で、様々な時代に語られたことです。でもそのように預言者を通して語られるのは、限界もあります。だから主なる神は、あえて御子を遣わされたのです。それは、この主の降誕の意味です。主の言葉が人にもっと届くように、御子が遣わされたのです。聖ヨハネが説明しているように、キリスト、御子ご自身は言葉であって神であって、神の子、永遠の神の子。その言葉はこの世に来られたのです。言葉は肉となったのです。そのキリストご自身によって、神様は全く新しい形で人間に語られた訳です。

 

もう目には見えない形、現象を通してだけではなく、ご自分自身人間となられた。人間の声で、人間の言葉で語られたのです。人間の感情を持って、人間の感覚を持って、人に見える人間として語られたのです。そこまで、主が望んでおられたのです。そこまで、主が人間に語りかけたいのです、そして応えを求めたいのです。というのは人間はそういう勝手なところもある、それもヨハネが示しているところです。「言葉は世に在った。世は言葉に依って成ったが、世は言葉を認めなかった。言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。」実際に歴史的には、それはありました。自分の民というのはイスラエルという民族、イスラエルの先祖達に予言者達を通してずっと語られた神は、やがて人間となって来られたのに受け入れられなかったのです。かえって十字架に掛けられてしまったのです。

 

でも聖ヨハネが言っているように、「しかし言葉は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」のです。そこも、このクリスマスの深い意味です。神の子がマリヤの子となったのは、私達人間が神の子の資格をいただくためです。そうして、主が私達を求めているのです。大概の宗教は人間が神を求めるところから始まって、神を求めるところがもっと中心です。神からの祝福等、悪からの護り、そういうことを求めているのです。今でも求め続けています。でも聖書で示された主なる神は、人間を求める神です。人間を探しに来る神です。人間と関わりたい。何か求めることだけじゃなくて、そういう親しい交わりーそのために人間を造られたからーそれはずっと主なる神が求めていることです。それこそ人間の本当の幸せと喜びです。人間はそのために造られたのです。それによって人間は、一番人間らしく生きるようになるのです。その意味では、キリストが人間と成られたことは、人間自身に人間の本来の姿になるように、人間がもっと人間らしく生きるように、そのためでもあります。人間の完全な幸せ、そういうことがクリスマスの大きな深い意味です。神の、人間の探求、追い求めるところ、追いかけていくと言いましょうか。でもそれだったら、主の降誕の神秘を本当に理解している人なら自分自身も問われます。そういう私を求めておられる神、人間となられるほど私を求めて、私を無限に愛しておられる神、私の愛を求めておられる神に、私はどう応えていますか?