年間第28主日 2023年10月15日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 25章6~10a節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 4章12~14、19~20節

福音朗読 マタイによる福音書 22章1~14節

 

 

<お説教要約>

 今日はまたもう一つの主のたとえ話です。先週、先々週と同じようなメッセージですが、ちょっと違う面もあります。同じように祭司長や民の長老たちに向けられた言葉ですが、今回は王の婚宴の話です。その話の中で二点、ちょっとびっくりするところがあると思います。まあ、びっくりするというのはそこから学ぶことがあるということなので、そこを大事にすることは聖書の読み方の大切なポイントです。

 

一つは、王の婚宴に招かれているのにどうして断るのかということ。普通だったら婚宴は喜ばしいこと、楽しいことでしょう。ましてや王の婚宴となると、楽しみと同時にもっと光栄でもあるし、もっと立派で食べ物も普通の婚宴よりおいしくてたくさんあるでしょう。それをどうして断るのでしょうか?これを理解するためにもう一つのポイントがあります。というのは、普通のたとえ話の中では話そのものの流れは話として自然に流れています。でも今回はもうちょっと寓話的な要素がある。話そのものの流れより、指しているところを考える必要があります。王の婚宴は主の救いのイメージです。第一朗読に通じるところです。黙示録を見れば「子羊の婚宴」という表現がある。聖パウロが言っているように、キリストは花婿、教会は花嫁という関係です。そのイメージのことです。その中では実際に断る人もいます。そこまで行きたくない。それはまたびっくりすると言えばそう言えるけれど、この話そのものよりもわかるところかと思います。

 

それは信仰によって知っているところです。人はこの世の目に見えることはよくわかる。目に見えないところはわかりにくい。目に見えないところより目に見えるところを選んで、そこに楽しみや幸せを求める傾向がある。だからそこに行かない人もいますが、最終的にもっと深いところで、人がそこに入るには一つの条件がある。主なる神に服従すること、これが必要ですが、それを嫌がる人もいます。主なる神が幸せになると言っていても、自分としては主なる神が与えてくださる幸せよりも自分が作る幸せの方がいい。自分で自分の幸せを作りたい。主なる神は創造主なのに、その神より自分の幸せを知っているつもりになっています。でもそれは全くの大きな勘違いです。人間は何が自分の本当の幸せか、よくわかっていない。私たちを創られた主なる神は、私たちよりも私たちの幸せをご存じです。何が私たちを幸せにするかを知っておられます。神様を信じて、自分より神様は自分のことを知っていると受け入れる人はそこに入ります。それに納得せず嫌だと思う人は入らないんです。

拒むところも出てくる。

 

最初の客が断ったから、王は家来たちを送って善人も悪人も集めるように指示した。どうして区別なく招くのか?それはキリストの宣教活動も指していると思います。キリストは皆に、善い人だけじゃなくて悪い人にも神の国の到来を告げたのです。回心に招きチャンスを与えた。それはすごく喜ばしいところです。悪い人はもう自分にはチャンスがない、希望がないと思ってしまうかもしれないけれど、キリストはそうではない。主なる神はキリストを通して、今また新たなチャンスを与えてくださる。今からまた神を信じるなら幸せになれます。

 

もう一つは、王が入ってきたとき礼服を着ていない人を見つけて追い出してしまったところです。いろいろな事情で礼服を持っていない人もいるのに、それはちょっとなあと思うかもしれない。でも実はこれには背景があって、私が読んだ解釈では、ここで礼服と訳された言葉のもとの意味は洗われた衣服、洗ってきれいにした衣服のことなのです。自分の持っている服を洗ってきれいにして婚宴に臨むのが普通なのに、ここでは仕事などで汚れたままの服を着替えずきれいにしないでそのまま出てきた。それはやはり失礼です。ここでそのことが指しているのは回心の必要です。前にも話したと思いますが、主の愛に甘えるか応えるか、その違いです。特に悪い人にとっては、主の大きな愛と慈しみによって回心のチャンスを与える、悪いからといって罰を下さないでまた新たなチャンスを与える、大きな愛です。でもその愛に甘えて自分は何も変わらないで回心しないで、ああよかった、私は愛されているから今まで通り生きていいと思うこと、それは甘えることです。でも主の愛に応えるなら、 それだけ愛されているから私は愛によって愛に応える、自分の生き方を変える、神様をもっと信じて主が教えてくださった道を歩もうとする、そういう心になります。

 

私たちにも問いかけられています。特にこの二点に関して。私たちは本当に、主が与えてくださる幸せは私の本当の幸せだと思っているかどうか。私が思っている幸せよりも主が与える幸せの方がもっと本当の幸せだと信じるかどうか、信頼するかどうか…。私は主の愛に甘えているでしょうか、それとも応えているでしょうか。