主の変容 2023年8月6日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ダニエル書 7章9~10、13~14節

第2朗読 ペトロの手紙二 1章16~19節

福音朗読 マタイによる福音書 17章1~9節

 

 

<お説教要約>

今日は少し特別な主日になります。今は年間の主日を続いて祝っています。先週は年間第十七主日でした。今週は十八でしたが、主の変容という特別の祝いが日曜日に入るから、そこで変わって主の変容をお祝いします。この変容の箇所はキリストが弟子たち三人の前で姿が変わって、そして顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったとマタイは伝えています。この出来事はキリストが受難と復活を予告したちょっと後のことです。教会の理解ではそれに関連しています。というのは十字架は大きな躓きになるのです。ただ、こういう風に前もって少なくともこの三人の弟子に躓きではないということをはっきり示しています。自分の栄光、御父の下で持っていた栄光でしたが、今度は十字架を通して復活され、またその栄光に入る、その栄光です。

 

でもそれはキリストのことだけではないのです。今日の叙唱は私たちに対するこの祝いの意味も説明しています。こういう風に説明あります。キリストは人々が十字架に躓くことのないように、選ばれた弟子たちの前で栄光を表し、その体はまばゆい輝きに満たされました。こうしてキリストの体である教会も十字架の道によって栄光に至ることが示されました。キリストはこういう風に十字架を通して栄光に入りました。でもキリストの身体、すなわち私たちは、キリストに属しているものは、キリストに結ばれてキリストのうちにとどまる、その恵みにとどまるならば、私たちも十字架を通ってその栄光に入ります。栄光に入ることは他の聖書の箇所でも示されています。先々週でしたか、麦と毒麦の例え話で最後の審判に触れて、正しい人は天の国で星のように輝くと、キリストは言われたのです。同じような輝きは、これは天の国の輝き、主は私達にも与えてくださる輝きです。今私たちは自分の身体が輝いているかどうか、そこまで関心があるか分からないのですが、考えてみれば一般の表現としてもそういうものがあります。例えば人がとても生き生きして喜びに溢れている様子は、その目が輝いてるとか、顔が輝いているとか、そういう表現もあります。だから何となく、私たちは栄光というすごい素晴らしい状態はそういう表現でも表わすのです。

 

これは文字通りの解釈でもあるのですが、それより内面的な状態を表しているのです。天国にいる聖人たちも心の喜びに溢れてる喜びで輝いていると言ってもいいと思います。ここでも叙唱にもあるように、キリストと同じように私達もその十字架の道を通らなければならないのです。そこに行くには。キリストにとって十字架の道は救い主の使命を果たすためのものでした。御父のみ心のままに受難を受け入れたから、そこで栄光にも入られたのです。私たちの場合の十字架という道はちょっと違う意味があります。私たちの十字架の道は特に私たちのためのものです。主が呼ばれている栄光に至るまでの妨げ、私たちの欠点とか罪などそれを取り除く必要があります。そして取り除く時は確かに私たちは苦しみます。何かそういう欲望をしてる時、そのようなものは苦しみを伴います。でもそれは栄光に至るには必要です。根本的に考えたら、幸せの問題もあるのです。人間は本性上、自分の幸せを必然的に求めています。不幸になりたいと思う人はまずいないです。でもその問題は幸せをどこに何に求めるか。例えばアダムとエバの原罪の話を見ても、アダムとエバは非常に恵まれていたのです。あらゆる良いものは全部整っていました。不足することは何一つない中で、一つだけ主が禁じた、中央の木の実を食べてはいけないと。でもアダムとエバはそれが欲しくなったのです。その意味ではこれを食べないと幸せにならないと、自分で幸せを決めた訳です。でもそれは大きな過ちです。というのは、私たちの幸せは主が決められることです。

 

例えば人間の体もそうです。私たちの体の健康は、どうやって健康に暮らすか決まっています。体の構造があります。人がどうやって健康になるか、人の選ぶところではないのです。健康になるように務めるかどうか、人間の自由です。でも体にはどうしても栄養、運動、睡眠などの健康を維持する要素があります。それも既に決まってます。人間の幸せも同じです。私たちは主に作られたものとして、主ご自身は人間の幸せについてどうなるか定めておられます。私たちとご自分との親しい交わりのために私たちを作られたから、それは私たちの本性の完成、充実、円満というか、私たちを作られた目的のために、目的を達することによって、本当の一番深い意味の幸せになります。でも人間は欲望にそそのかされて、いやこれでは幸せになれないとこだわったり、執着すると神に逆らってまで、神を無視してまでそれを求めると、決まって人間は不幸になります。最初は一時的に少しの楽しみを感じるでしょうけど、ずっと続くと本当に不幸になります。最後までそのままの状態だったら永遠の苦しみの地獄に落ちる恐れもあるのです。

 

今日、主が私たちに与えられてるメッセージはそういう希望、明るい輝く将来その示してくださるのです。それについてくるように呼んでいます。その意味ではキリストに対して雲から出た御父の声もあります。キリストに対して雲から出た御父の声もあります。「これは私の愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け。」それは弟子たちに向けられた言葉ですが私たちにも向けられた言葉です。これは信仰の問題でもあるのですが、私たちは果たして、主が私のために定めた幸せを、本当の私の幸せと信じるかどうか。または、いや主が定めても、むしろこの方が私は幸せと思うか。主のことを信じるかどうか。主の私に対する教えを大切にするその愛を信じるかどうか。私は分からなくても、とにかく主だから主は間違いなく正しいことを教えています。私の本当の幸せを望んでおられます。それを信じるかどうか。そこに私たちの選択自由があるのです。その選択に私たちが幸せになるかどうかもかかっています。