年間第15主日 2023年7月16日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 55章10~11節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章18~23節

福音朗読 マタイによる福音書 13章1~23節

 

 

<お説教要約>

きょうの福音は、キリストの種蒔きのたとえ話の場面です。この種蒔きのたとえは、どんな機会にお話しされたのか、はっきり示されていませんが、いまの学者の研究などによってこういうものであっただろうと思われています。イエスは、神の国の到来を告げたんです。神の国が近づいて、回心して福音を信じなさいと。それは、主の基本的なメッセージの要約の言葉です。でも、どうもキリストについて行ったひとたちは、そんなに神の国がはじまっている感じはしなかっただろうと。従っているひとたちは、わずかだったけれど、それに目覚ましい奇跡も目撃したでしょうけれど、その半面、社会的にはそんなに変化はなかったんです。むしろ社会からもっと反対が強くなったんです。特に、当時のユダヤ教の指導者たちは次第にキリストに反感をもって、たくらみはじめたんです。これは神の国がはじまるのかと、疑問に思ったひとたちもいたのではないかと、そういうふうに考えられています。

 

それならば、このきょうのたとえ話では、特に、主のメッセージは神の力を強調しています。要は、種が蒔かれて、いろいろな問題があったとしても、種が道端に落ちたり、石だらけの所に落ちたり、茨の中に落ちたり、そして良い土に落ちて、さまざまな所に落ちても最終的にすごい収穫があるんです。ここでは、三十倍、六十倍、百倍というような収穫があると話されています。いまの研究では、当時は、十倍は本当に豊作だと思われたんです。平均の収穫は、だいたい七.五倍だったそうですから、この三十倍、六十倍、百倍はすごい収穫です。そこでキリストが強調しているのは、いまのはじまりはそんなに小さく見えても、将来あまり無いのではないかと疑問に思っても、そうではないんです。主なる神は必ずご自分の力によって想像を超えるような実りをもたらしてくださるんです。

 

実際に歴史を振り返ったら、キリストが弟子たちを派遣して教会がはじまってから、ローマ帝国の中で少人数で迫害されながら、徐々に成長して、やがて今日に至るまで、最近の数字では世界中のキリスト者は二十六億人ぐらい、全人類の人口の三分の一ぐらいです。確かにイエスの時代、当時のひとびとには想像もつかないような実り、結果になったわけです。それはひとつ大事なポイントで、わたしたちに対する教訓でもあるんです。主なる神の力、信じることの大切さ、主は人間が考えられないようなことをなさるんです。ずっと昔からです。イスラエル人はエジプトを出るとき、もうどうしようもない状態でした。前に海、後ろからはファラオの軍隊がやって来る。逃げようがない所で、主なる神は道の無いところに道をつくってくださったんです。そこまで主はできるわけです。その力で、その慈しみ、救いの力を示して。ここでは、ご自分の福音、キリストをとおしてはじめた救いのわざを力強くすすめるわけです。

 

それと同時に、その後の福音書の続きを読むと、土の状態も注目されるんです。それは人間のほうから見たものです。主の恵みは、同じようにすべてのひとに与えられています。このたとえの中で、道端でも、石だらけの土でも、茨の中でも、良い土でも全部、種は蒔かれています。第一朗読では、主の言葉は雨にたとえられています。雨なら、どこにでも降ります。キリストも言われます。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせて、雨を降らせてくださるんです。その雨は神さまの恵みで、同じようにどこにでも降ります。ただ、降られた所の状態によってその結果が違うんです。種がどんな所に蒔かれたかによってその結果が違ってくるように、雨が降るときも同じように、コンクリートやアスファルトの上に降ったら、表面だけ濡れて浸み込まないんです。でも、よく耕された土の上に降ったら、そこで浸み込んでいろいろな作物がつくられます。それは人間の心の状態を指しているような表現だと思います。

 

でも、この土とかとちょっと違って、人間の心の状態は人間の意志にもよるんです。人間がどういうふうに選ぶか、何を目指すかという態度。そこでは人間の自由も働いています。わたしたちは自分の心をなるべく良い土のように保つことの大切さです。それなら、もっと主の恵みが浸み込んで、わたしたちの人生の中で実り、もっとキリストに似る者になります。でも、どうやってそうするか。まず、主の働きに気をつけて、それを受け入れるところにあると思います。というのは、主に近づくことは、わたしたちは自分で知恵を出して努力しなさいと言われたわけではないんです。キリストも言われているように、主は絶えずわたしたちをご自分に引き寄せようとされています。だから、そういう主の引き寄せようとされる働きに気づいて、それに応えることによって、主の力でわたしたちは引き寄せられます。

 

その働きがどこにあるかというと、だいたいわたしたちが思わないところにあるようです。たとえば、わたしたちの不安、恐れ、悩み、心配、苦しみ、特にそういうところで、わたしたちはもっと主の働きを受けています。というのは、そういう経験にわたしたちがどう反応するか、どういうふうに受けとめるかによって違ってくるんです。これは、実際に、普通のときよりキリストに近づくことのできる機会です。全部うまくいくときは、主を信じることはわりに簡単です。でも、そういう恐れの中、不安、苦しみ、悩みなど、そこで主を信じようと求めようとするなら、わたしたちはまた成長します。キリストに近づきます。

 

わたしが最近ちょっと聞いた話ですが、あるひとの友だちが末期癌になって、そのひとが感心したことには、その友だちが末期癌になってから、どんどん霊的に成長していくのをつくづく感じたそうです。その友だちは、良いふうに受けとめたんです。自分の心を良い土にしたんです。別のひとは、もしかしたらキリストを信じて祈って治らなければ、そこでがっかりするかも知れないです。でもその友だちは、それを主を求める機会にして、どんどん霊的に成長して、最終的に亡くなりました。そういうようなことを見れば、このひとは特に天国に行ったのではないかとわたしは思うんです。でも、わたしたちも同じ人生の中で、そこまでいかなくても、あらゆる不安、苦しみ、悩みの中で、これは主に近づく機会なのだと受けとめたら、その後はずいぶん違います。