年間第13主日 2023年7月2日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記下 4章8~11、14~16a節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 6章3~4、8~11節

福音朗読 マタイによる福音書 10章37~42節

 

 

<お説教要約>

今日の箇所は先週からの続きです。キリストは十二使徒を派遣するにあたって、いろいろなことを説明しています。後半は主に十二使徒に向けてのもので、私たちにどこまで当てはまるかは難しいのですが、前半は私たちにもはっきり当てはまる、私たちにも向けられた言葉です。キリストは、すべてを越えてご自分を愛することの大切さを強調しています。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも娘や息子を愛する者は、私にふさわしくない。」このように、一番身近な人より優先してキリストを愛することが求められています。これは福音書のキリストの教えを読んだとき、印象的なところです。キリストは極端な恵みを約束すると同時に、極端な要求もします。恵みも大きいけれど要求も大きいので、まず恵みの大きさを心に留めておくべきです。そうしないと要求の前でつまずくと思います。最終的にキリストはいつも私たちのことを思って、そこまで要求しておられる。愛の鞭と言いましょうか、大きな要求はキリストの大きな愛の表れなのだと、私は本当に信じています。

 

今日の箇所でも同じようなことが言えると思います。身近な人、家族は皆にとって一番大切な人です。一番絆が深いです。親、子ども、兄弟姉妹、親友…そのような関係はすごく重要な意味を持っています。けれどもその人たちを、どこまで本当の意味で愛しているか。人間の成長を見れば、愛することは必要とすることから始まります。たとえば、赤ちゃんは何もできないので、すべてにおいて親に頼っています。そこで赤ちゃんが親に甘えるのは、一つの愛の種類です。必要とすることのあるタイプの愛です。親のことは愛していますが、親から期待している、求めている、必要としているんです。その意味では自分のために愛しているところが確かにある。そしてそれは、大人になっても完全に消えることは難しいです。人を愛するとき、人間の心にはその人から何かもらえるから愛するというところがまだあると思います。古代ギリシャの哲学者は、愛はそのようなものだと思って、キリストが言うほどの愛までは考えなかった。その愛は要求、欲求、自分のためになるから愛する。アリストテレスが言う神は愛する方ではないのです。神は何も必要とするものがないから愛することもないけれど、人間は必要とするものがあるから愛する。人間としてはある意味やむをえません。私たちは限られた存在、造られたものとして、そういう弱さとか欲求、願望がある。子どもによく見られる欲求不満です。幼稚園に通ってくる子どもによく見られることですが、下に弟か妹が生まれるとその子は赤ちゃん返りすることがある。お母さんは新しい赤ちゃんの世話で忙しくなって、その方に心を配り関心を持たざるを得ないので、上の子は今までかけてもらっていた愛情が減ったように感じて、自分も赤ちゃんに戻ってそれをもらおうとする心の動きがあるんです。

 

このようなことは、人間としてはある意味やむおえません。人間自身は満たされなければ、本当の意味で自分を置いて純粋に相手を愛することは不可能だと思います。そこで先ほどのキリストの教えが登場するのです。誰より優先的にキリストを愛する人は、もっともっとキリストの愛に満たされます。キリストの愛に満たされたら自分の要望なども満たされて、他の人にそれを求める必要がなくなる。自分を置いて、もっと純粋に相手のことだけ考えて相手のために尽くすことができるようになるのです。親や子どもをないがしろにするという意味ではなくて、むしろ父や母よりキリストを愛する者は、そうしないことに比べてもっともっと純粋で深く愛することができるのです。同じように、息子や娘よりキリストを愛する者は、そうでない場合よりもっと深く息子や娘を愛することができる。自分を置いて、純粋に子どものことだけを考えて愛するようになるのです。逆説的に聞こえますが、そのようになるのです。

 

キリストの教えは私たちに一番幸せな道を教えていると同時に、一番大切な人、身近な人、家族を、もっと深く愛する道でもあります。