三位一体の主日 2023年6月4日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 34章4b~6、8~9節

第2朗読 コリントの信徒への手紙2 13章11~13節

福音朗読 ヨハネによる福音書 3章16~18節

 

 

<お説教要約>

今回は三位一体の主日です。それは偉大な神秘、私たちの信仰の根本的な神秘です。十字架を切るたびに、私たちはその神秘も宣言しています。

今日の朗読では特に、神の愛についてが中心だと思います。第一朗読では、主ご自身がご自分のことを、憐み深く恵みに富む神、忍耐強く慈しみとまことに満ちたものと話されています。この表現はイスラエルの民にとって中心のものとなりました。聖書の他のところでも同じ表現があるし、捕囚時代以前からすでに神殿の典礼に取り入れられたと考えられていて、今日までユダヤ人の会合の礼拝の中でこの言葉がよく出てきます。神の愛を強く伝える言葉で、主なる神自身の言葉として大切にされ、ユダヤ人にとっては大きな慰めと力になっています。キリスト者の場合は、今日の福音書が同じような役割を持つと思います。特にこの箇所は聖書の中で、神の愛を示すところとして有名です。「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」。それはキリストを通して示された神の愛であり、今日の三位一体のテーマにもつながるのです。

 

神は愛であるということは三位一体でも示されています。というのは、人間を愛する前に主なる神はまず父と子と聖霊で愛し合って、三位一体そのものは愛の交わりでもあるからです。私たちに対する意味も、ちょうど今日の「聖書と典礼」の表紙にあるイコンが示しています。この後書きでは、食卓から二人の人の足の間が三角形になっている。三角形は古くから三位一体の印です。角が三つあると同時に一つの図形だからです。でもこの場合ちょっと違うところは、このイコンを眺めている人の側から一番こちら側にその角が描かれていて、完全に角になっていない。その意味は、「イコンを眺めている人も、父と子と聖霊と共に命の交わりに与るよう招かれている」ことを示しているそうです。神の場合は、命の交わりと愛の交わりは同じものです。私たちはそれに参加するよう、与るよう招かれています。三位一体自体の愛の交わりに、人間は招かれているのです。それは人間の何よりもの喜び、幸せです。それこそ永遠の命です。

 

ただ私は時々、その神の愛を軽く見る傾向があるのではないか…と感じます。神の愛はもちろんありがたいことで、私たちにとっても慰めと励みになるものです。でも、たとえば友達から旅行に一緒に行かないかと誘われたとき、とても行きたいのだけれど都合がつかなくて、すごく残念に思いながら断ることと似ている。神の愛もありがたいけれど、それに応えるにはどうも都合がつかないというか、この世の生活のいろいろな心配があって、そこまで心から入っていけない。でもそれは、神の愛に与るよう呼ばれている、招かれていることを軽く見ていることになります。それは、私たちが部屋にいるとき消防士が来て「この建物の一階で火が出たから早く避難しなさい」と言われることと似ている。その場合人は「あ、今は都合が悪いから避難しません」とは言わない。神の招きはそれに似ています。神様の三位一体の愛の交わりに与るか、滅びるか、人間はそのどちらかになるのです。でもそれは脅迫ではない。消防士の勧めのように、その人が滅びるためではなく救うためです。その人を救い出すために、死ぬか生きるか…。キリストも同じです。私たちを滅びから救い出すためにこの世に来られたのです。

 

人間が死んで神様の前に出たとき、この世でのあらゆる喜びが取り上げられます。何もない、自分の体もない。まったく神の前に出て、あらゆることより主なる神自身を自分の喜びとしないなら、もう喜びはない。それは必然です。神様ご自身は人間を自分のために造られ、自分以外に善いものは何もないので、自分以外の幸せはあり得ない、最終的、究極的に。この世にあるあらゆる善いもの、喜びになるものは、それを通して私たちが最上のこの上ない喜びを求めるように、神様が与えた恵みとしてあるのです。神に誘うための恵みです。でも神様よりその恵みを大事にする人は、究極的な喜びである神を失ってしまいます。たとえば人は交際する中で、自分の愛情を表すためにプレゼントをあげることがある。でもその相手が自分よりプレゼントを大事にして、人より物を喜びとするなら、その関係は育たない。プレゼントは相手への自分の愛の心の印であって、自分自身の代わりにはならない。私たちも同じように、この上ない想像もつかない喜びに招かれています。三位一体自身の愛の交わりに。でもこの世の一切のものを主なる神より喜びとするなら、それを失う恐れがあるのです。