復活節第6主日 2023年5月14日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 使徒言行録 8章5~8、14~17節

第2朗読 ペトロの手紙1 3章15~18節

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~21節

 

 

<お説教要約>

今回は、またイエスの晩餐の席での話の続きです。聖ヨハネによる福音書です。聖ヨハネによる福音のひとつの特徴は、かなり簡単な言葉で書いてあるのに奥深いところにあります。その意味では、ヨハネによる福音の場合、特に注意深く思い巡らして、黙想する必要があります。きょうの箇所も、その意味で、ちょっと読んでみたいと思います。

 

まず、キリストは弟子たちに「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。普通は、愛することと聞き従うことは、そんなに結びつかないかも知れないけれど、よく考えてみれば、確かにひとを深く愛しているときは、そのひとに喜ばれたいという気持ちが強くなるんです。自分のしたいこととか、自分の思いより、相手に喜ばれることを選ぶんです。世の同じような心について、キリストはここで話しているのではないかと思います。わたしたちを愛しているのであれば、イエスに喜ばれたいという心になるから、イエスの掟を守ろうとするんです。それは、イエスに喜ばれていることです。その掟は、特にヨハネによる福音では、「互いに愛し合いなさい」とこの晩餐の席で言われています。

 

でも、本当に意味の「愛し合いなさい」、特にイエスが言われた「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と、それを実行することは、あらゆる徳を含んでいます。実際に本当の意味でそれを実行するひとは、もうすでに聖人になります。それは、主に喜ばれることです。そしてその後、キリストは聖霊を遣わす約束をします。来週は、わたしたちは主の昇天を祝って、その次の週はもう聖霊降臨です。いま教会はそれに向かって黙想しています。その聖霊は、ここで「真理の霊」と言われています。真理の霊。その聖霊はわたしたちの精神を照らすかたです。特に、信仰生活において、聖霊の働きは精神を照らして、わたしたちが良いことがわかるように、意志を強めて、わたしたちが実際に良いことができるように、そういう光と力を与えるかたです。真理の霊は、特にそういう光の面を指していると思います。

 

真理は、真実、本当のこと。後でキリストは言いますが、世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることはできない。ここで言うのは、そういう世俗的な社会、世間と言われるようなところです。特に、ヨハネによる福音では、この場合は、神から離れて神に逆らっている人間の社会を指しています。でも、その社会は、神さまに逆らっているから、必然的に心にやましいところができてしまうんです。それでも、やましいところは見たくないんです。でも、聖霊が来るなら、聖霊は真理の霊だから、自分の本当の姿をわたしたちに示してくださるという意味で、わたしたちの精神を照らすこともあるんです。それは嫌だから、聖霊を見ようとも知ろうともしない。でも、弟子たちは聖霊を受けているとキリストは言います。弟子たちは、回心してキリストに従ったかたたちです。弟子たちの場合は、本当にすごいことを後で約束されています。聖霊のことだけではなくて。

 

キリストは、ご自分は去っていくと言うのですが、後でまた弟子たちに戻って来ると、世は見なくなるけれど、弟子たちは見るとキリストは言います。それは特に、最初のひとたちを考えると、ご復活と、後はご自分を弟子たちの前に現した、出現したんです。世は見なくなったんです。キリストは、当時の社会の中で、目に見えるかたちでご自分を現さなかったんです。ほかの信じていないユダヤ人たちはキリストを見なかったんです。でも、弟子たちは見たんです。キリストは戻って来ました。それは、弟子たち・使徒たちの時代ですが、その後の続きとしても弟子たちだけではなく、もっと一般的にキリストは祭儀で言います。「わたしの掟を受け入れ、それを守るひとは、わたしを愛する者である。そして、わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。わたしもそのひとを愛して、そのひとにわたし自身を現す」。それは、弟子たちだけではなく、キリストを信じて掟を守っているすべてのひとに。

 

実は、弟子たちの前に現すと言っても、復活されたキリストがわたしたちの目の前に現れるということは、それはあまりないんですね。中には、聖人たちがイエスを神秘体験の中で、まぼろしの中でキリストを見たという話もありますが、大概のひとはそうではありません。でも、その現すとは、精神的な面もあり、心の中で現す。それもひとつのキリストのすごい約束です。「かの日」。キリストを愛してその掟を守るひとは、「かの日」に、そのひとはわかります。キリストは父の内にいて、そして、キリストはわたしたちの内にいて、わたしたちはキリストの内にいる─そういうすごく深い結びというか、絆。普通の人間関係をはるかに超えるものです。

 

ある意味では、深く愛しているひとは、その相手が自分の心の内にいるような感じがすると思います。キリストはそれよりももっと深い意味でそうするんです。自分の神としての力によって。そのことをいま、わたしたちにキリストは話しておられます。そして、それはわたしたちに対する道も示しておられます。キリストと一致するようにわたしたちは呼ばれています。キリストの内にいて、キリストはわたしたちの内にいて、それは何よりもの人間の喜びです。この世において、それは完全な喜びの始まりです。でもやはり、そのためにはそれを妨げるものをわたしたちも努力して、主の恵みに頼りながら、自分の中から取り除くことが大切です。そうすれば、わたしたちも、ますますある意味で心の目でキリストを見るようになって、キリストの内にいること、キリストがわたしたちの内におられること、そして聖霊がわたしたちの内に一緒に住んでおられることももっと意識するようになります。