四旬節受難の主日 2023年4月2日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

福音朗読 マタイによる福音書 26章14節~27章66節

 

 

<お説教要約>

受難の朗読。この十字架のことについて当時はその十字架の刑はあまりにも残虐であまりにもま侮辱的なものだったから一般のローマ人はそれを口にするのも避けたそうです。でも実際にローマ帝国の歴史を見ればこの十字の刑に処刑された人は何千人何万人もいただろうと思います。確かな数字はわからないけど、そのすべての中でこの十字架に架けられた次第、記録は四つしか残ってないのです。何とその四つとも、ただ一人の人の一回の一つの十字架刑のことです。それは福音書に載っている四つの記録です。キリストのこと、それ以外の記録は残ってないのです。

 

それだけひどいものだったのですが、福音書を読んだら、キリストの場合は普通の十字架刑の人と違うことは当時の人もはっきり分かったということは本当に伝わります。普通の囚人ではない、普通の裁判ではない、また普通の死刑ではないと、この人の場合は全部違うということがよく伝わります。

 

四つの福音書の中で、特にマタイはそういう不思議なところというか神秘的なところを強調している感じがします。例えば、ピラトでもこれは普通の囚人でないことも分かったことですが、バラバを釈放しようと思ったことは、イエスを渡したのは妬みのためだとピラトが分かったそうです。それにピラトの妻からの伝言があったのです。あの正しい人に関係しないでください。その人のことで私は昨夜、夢で随分苦しめられました。だからそういう間接的な忠告と言いましょうか、これは普通と違うのです。普通の犯罪人ではないのです。それでパウロが改めて感じたのではないかと思うのです。これもマタイだけ伝えていることですが、後でピラトは水を持ってこさせて手を洗って、そしてこの人の死について私には責任がない、お前たちの問題だと言っています。責任逃れですけど、確かにそこまで責任をとることはできないです。やはり総督である以上は、不正の要求に応じることもピラトの責任です。いずれにしてもその血の責任は我々と子孫にあると、その民は答えました。マタイだけ伝えているところです。

 

これは責任を取るということです。責任を負うという表現で、聖書の表現としてです。でも主の方から見れば別の意味があると思うのです。キリストが流した血は確かにユダヤ人のためでもあるのです。だからその血がユダヤ人のために降り掛かってかかってほしいとイエスはその望んでおられると思うのですけれども、ご自分の血は罪の赦しと永遠の命をもたらすものです。そのためにこそ十字架で血を流したのです。そういう意味ではユダヤ人が言った言葉はキリストの思いと違うところはあると思うのです。それも一つ普通ではないところです。

 

最後にマタイは、またマタイだけ伝えている箇所を通して、キリストが亡くなった時、真っ暗闇があることは他の福音書も伝えてるけれども、地震が起こって墓が開いたというそのところはマタイだけ伝えているところです。そこに示してあるのは、キリストは自分の死によって死者に命を与える方だと、示しているのです。こうしてたくさんの十字架の刑の中で、すべての中できわめて普通ではない不思議で神秘的、唯一の十字架の刑の出来事は、私たちの信仰の中心にもなったのです。今は十字架はキリスト教のシンボルになっています。ちょうど中心的なところを指しています。祈るたびに私たちは十字架を切るのです。毎回そのことを思い起こしたいからです。そこに救いを求めています。あらゆる救いの恵み罪の赦し永遠の命はこのキリストの十字架にあるのです。その受難と復活にあるのです。そこは私たちの信仰の中心的なところです。

 

そして信仰の歩みの中で中心になるべきです。キリストの言葉にもあるのです。私に従いたいものは自分の十字架を背負ってついてきなさいと言います。でもそれは私たちの務めだけではなくてその恵みを求める場所でもあるのです。そういう力があるから自分が何か心配事とか悩みがあれば、十字架の下で主に委ねればいいのです。もし何か苦しみがあれば主の十字架の下で主に捧げれば良いです。また何か罪を犯してなかなか乗り越えないというか、回心しきれないというか、繰り返してる場合は、恵みと力を主の十字架の下で願えばいいです。自分がもっと愛する人間もっと謙遜な人になりたいと思ったら、その恵みも十字架の下で願えばいいです。あらゆる恵み、力、赦し、癒しを十字架上の下でで求めればいいです。自分の信仰生活の中で十字架を中心にするなら、もっと力強く歩み続けることができます。

 

確かにこの十字架はローマ人から見ればユダヤ人から見れば現代人から見ればとんでもないことです。パウロは昔コリントの信徒に説明したように、ユダヤ人はしるしを求めギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えてます。すなわちユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人よりも強いからです。