四旬節第5主日 2023年3月26日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 エゼキエル書 37章12~14節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~11節

福音朗読 ヨハネによる福音書 11章1~45節

 

 

<お説教要約>

今回は、先週と先々週の連続のような感じです。先々週は、サマリア人との対話で特に“水”のことについて、具体的または象徴的な意味を聖ヨハネはもっと深めました。先週は、“光”について同じように具体的な意味と象徴的な意味を深めました。ここでは、特に“死”についてのことです。これもまた、具体的な意味または象徴的というか霊的な意味で捉えています。

 

今回の話は、キリストがラザロを生き返らせる奇跡です。それは、実際にひとつのしるしでもあるんです。それは、マルタと話しているときにキリストが言われたことです。「わたしは復活であり、命である」。ほかのところでイエスが言われたように、御父がご自分の内に命をもっているように、御子にも自分の内に命をもっているようにしてくださると。その意味では、命を与えるかたでもあるんです。そして、ラザロを生き返らせたことによってそれを示したんです。ただ、ここでは、キリストは自分が復活であり…復活と今回の奇跡は違うんですね。ラザロは復活したのではなく、生き返ったんです。その違いは、ラザロはその後しばらく生きてまた死にました。でも、復活したひとは二度と死なないです。それがひとつ大きな違いです。

 

聖パウロが説明しているように、復活したひとは、自然の命の体から霊の体に復活するんです。ラザロの場合は、自然の命の体にそのまま生き返ったんです。でも、それは復活を指すしるしでもあるんです。キリストは、そういうふうにひとを生き返らせることができるように、ひとを復活させることもできます。そのことは、聖パウロが、第二朗読でもまた話しています。それは、具体的なレベルで。でも象徴的、霊的な意味のことも考えると、死について聖パウロが説明しています。エフェソの信徒へパウロが書きました。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」。それは、霊的な意味です。

 

この罪と過ちによって、ひとは神さまから離れて…それは、聖パウロが第二朗読で「肉の支配下」について同じことを言っています。注釈にもあるように、「肉の支配下は、神から離れた人間の罪深い状態をあらわす」表現だそうです。そして、その状態は、霊的に死んだ状態でもあるんです。というのは、命の源である主なる神から離れている状態で、実際に体は死んでいないけれど、そのまま回心しないで死んだら、永遠の死に入ります。地獄。黙示録では「第二の死」とよんでいます。その意味では、死んだ状態です。実際に主なる神から離れたことで、もうすでに霊的に死んでいるんです。それは、致命的な状態です。後は、地獄に落ちることになるんです。

そのひとを、聖パウロがコロサイの信徒に説明したように、「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」。霊的な意味では、キリストの救いのわざは、霊的な死からわたしたちを救って生かしてくださるんです。わたしたちをキリストと主なる神との親しい交わりに導いて入れてくださるんです。このことを聖パウロは、第二朗読で「霊の支配下」とよんでいます。「霊の支配下」にいるひとは、キリストの内にいます。キリストは、そのひとの内におられます。そういう状態になるんです。キリストの内に命もいただきます。

 

ただ、それは主の働きによるんです。わたしたちは、そこに留まる必要があります。というのは、この恵みは、一番最初は洗礼によっていただく恵みです。洗礼は、そういう罪のゆるし、罪からの解放。キリストは、ラザロを墓から呼び出したように、そして、いろいろ布で巻かれたラザロをほどいてやって、行かせなさいと人々に言われたように、わたしたちをあらゆる罪から解放してくださったんです。その恵みを洗礼によっていただくんです。それは再生、あらたに上から生まれることもキリストが説明しています。新しい命をいただくんです。そして、霊の支配下にも入ります。そこで、聖パウロが説明しているように、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」。でも、「宿っているかぎり」とは、いったん恵みをいただいても、失うことはできます。

 

特に、教会でいう大罪、大きな罪を犯したときは、その恵みを失って霊的に死んだ状態になります。そして、肉の支配下に戻ってしまうんです。いまのわたしたちは、四旬節の歩みの中で、回心の歩みでもあるんです。なによりも、大罪があれば勿論ほんとうに回心すべきです。でも、小罪であっても、それがまた悪くならないように回心に努めることが非常に大切です。いわゆる「塵も積もれば山となる」と同じように、小罪でも、わたしたちとキリストとの関係を損なうので、小罪を繰り返したら、もっとキリストから離れてしまうんです。大罪にもっと陥りやすくなるんです。そういうことを、この四旬節の間に心がけることです。

 

どうやってその恵みに留まるか。キリストとの関係を大切にすることが重要です。わたしたちは忙しい中で、ほんとうに大切にするには、そのために時間を割くというのがひとつの基準です。家族でも、家族と一緒に過ごす時間をつくらなければ、だんだん家族からも心が遠のきます。それと同じように、キリストのための時間をつくらなければ、心がキリストから遠のきます。そうなると、大罪に陥りやすくなるとか、もっとひどい状態になる恐れがあるんです。それもひとつ、小罪を回心すると同時に、キリストとの関係を大切にする決心、決意をあらたにする四旬節の歩みです。そうすることによって、わたしたちはもっと大きな喜びをもって復活祭を迎えることができます。