四旬節第3主日 2023年3月12日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 17章3~7節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節

福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

 

 

<お説教要約>

「私たちが信じるのは、私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかったからです」

今日はヨハネによる福音から読みます。このヨハネはほかの福音書と違う書き方をしています。他の福音書はヨハネより多くの出来事や奇跡を伝え、キリストの教えを書いていますが、ヨハネは数少ない出来事や奇跡を伝え、その意味をもっと深く堀り下げて説明しているのでます。

 

今日の箇所もそうです。まずキリストがサマリア人に会った出来事ですが、いろいろ説明しそれを深めていきます。現代的にいえば、信仰の歩みを示していると言えるでしょう。サマリアの女はまず、キリストは預言者だと言うところから始まり、その次には、キリストと呼ばれるメシアだと言い、最後にはサマリア人たちがキリストは世の救い主であると信仰を告白するまでになります。

 

でもこのきっかけは水についての話です。水自体という具体的な物から出発しますが、キリストはその意味を深めていきます。象徴的です。女自身はキリストが水を与えると言うと、それではもう汲みに来なくてもよいのだと具体的なレベルで考えます。しかしキリストはそのあともっと深い意味に導いていきます。しるし、象徴としてこの水には特に二つの意味があります。

 

まずこの女は、私たちの代表と考えてよいでしょうが、喉の渇きを癒す物質としての水を考えます。しかし、主の与える水は心を癒す水です。これは『カトリック教会のカテキズム』にもあるように、「神への憧れはすべて人の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているため、神に近付くように造られています。神は絶えず人間をご自分に引き寄せておられます。人間は神の内にだけ、求めてやまない真理と幸福を見出します。それは心の渇きです。」それを感じていない人がいるとしたらそれは意識していないだけです。私たちは皆神に向けて造られた存在なので必然的にそれを求めているのです。

 

私たちがそれに気づかないのは、現代世界がたくさんの刺激を絶えず人間に与える環境だからです。その刺激を絶えず受けている私たちはそれに気をとらわれて、心の奥底にある神への憧れに気づかないのです。駅のホームで電車を待っているときにはあまりにも放送や電車の音が大きくて、人の囁く声が聞こえないのと同じように、私たちも現代社会の騒がしい中にいると心の中で神が囁く声が聞こえないのです。

 

教会の伝統も沈黙を大切にしています。沈黙すること、それは心の奥底で語られる神の声が聞こえるためです。心に刻まれた憧れに気づくためです。現代社会にはそれがないので、私たちは意図してその時間を作らなければなりません。テレビやいろいろな音を止めて沈黙に入ることは信仰の歩みのために大切なことです。それは心の奥底にある神の声が聞こえるためです。心に刻まれた憧れに気づくためです。

 

もう一つはキリストの渇きです。キリストは最初に、「水を飲ませてください」と言われました。これも象徴的であって、喉が渇いていて水が欲しい、という次元よりもっと深いことなのです。キリストは私たちの愛に渇いています。ヨハネが伝えているように、キリストは十字架上で「渇く」と言われました。主が私たちの愛に渇いておられるのです。マザー・テレサが気づいたように、「キリストは喉が渇いているだけではなく、私たち人間の愛に飢え渇いていていらっしゃいます」。私たちが神を求める以上に神は私たちをはるかに、無限に求めておられます。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられるのです。求めておられるのに、私たちはそれに気づかないことが多いのです。

 

この二つには同時に深い関連があります。一つは私たちが神への憧れにもっと気づいて意識することです。神が私たちを愛し、私たちからの愛を求めておられることを黙想して思いめぐらして気づいたら、自分からの求めにももっと気づくでしょう。今日の箇所は特に大切な光です。家に帰ってから沈黙の時間を造り、静かにこの福音の箇所を読み返し、キリストに、ご自分の愛をもっと悟らせてくださいと祈るなら、それはすでに主の飢え渇きに対する応えになります。それによって私たちも信仰の歩みを続けて、復活祭をもっと大きな愛をもって祝うことができるようになるでしょう。