四旬節第1主日 2023年2月26日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節

福音朗読 マタイによる福音書 4章1~11節

 

 

<お説教要約>

四旬節第1主日は、毎年、イエスの誘惑された場面が読まれます。今年、特に強調されているところがあります。マタイによる福音書を読んだら、キリストは、イスラエルの経験をある意味で繰り返しています。イスラエルがエジプトから出て砂漠にいる間、いろいろ誘惑を受けて、イスラエルの民族は誘惑に負けました。でも、キリストは誘惑にあって勝ったのです。それは取り消しと言いましょうか、完成です。キリストはアダムとエバの誘惑にも勝ちました。アダムとエバは誘惑を受けて罪に陥りましたが、キリストはそれに勝ち、アダムとエバの誘惑も乗り越え、取り消しました。その意味では、聖パウロが言っているように、キリストは新しい人類の始まりです。勝利から初めて、宣教活動、受難と復活において、新しい人類の始まり、頭となりました。それはキリストにおける意味です。

 

では、この箇所は私たちにどういう意味を持っているかを考えたら、それは誘惑の気づきです。キリストが受けた誘惑の申命記から引用した箇所は、砂漠の時の誘惑の場面です。それぞれを見れば、イスラエルは自分が誘惑されている、試されていることに気づかなかったのだと思います。ただお腹が空いたから、パンが欲しい、喉が渇いたから、水が欲しい、それを誘惑、試しと考えなかったのです。シナイ山の麓で牛を作って拝んだ時も、誘惑とは思わず、モーセがどこかへ行ってしまったからなんとかしようという思いだったのではないでしょうか。キリストは、はっきり気づいて、それに応えて退けたのです。私たちに対する模範ですが、模範だけではなく、キリストにおいてキリストに結ばれたら、私たちも、誘惑に打ち勝つことができます。それにはキリストのように気づく必要があります。私たちもいろいろな悩み、苦しみを経験します。その時は、信仰が試されます。多くの場合、「困ったな、どうしようか、神様、助けてください」とみんな考えますが、信仰を試される時だとは考えていないです。試されている、誘惑、苦しみ、悩みは、私たちの受け止め方によって、主なる神キリストから離れる誘惑にもなるのです。むしろキリストのように、その中で、主に対する思いをもっと新たにすれば、キリストに近づき、信仰が深まることにもなるのです。そこまで気付かなければ、その可能性が出てきません。

 

特に四旬節においてそれは1つの始まりとも言えます。多くの人は、告解のことを言われても、何を告白すればいいのかよくわからないから気が進まないのです。まず、そこから主に教えていただく必要があります。

その祈り

「主よ、私の心を照らしてください。私があなたに近づくためにどんな妨げがあるか、どんなすすめがあるか、教えてください。そして回心に導いてください。」

このような祈りはとても大切で、必要だと思います。アダムとエバの犯した原罪の影響で、私たちは自分の心が自分自身のことでもわかりづらくなったのです。誘惑のことも、全体的なことでも、本当の自分の姿、自分自身でも見えていないのです。そこで、主の助けが必要です。心を照らしていただく必要があります。私たちの本当の姿、真実の自分は、主なる神が私たちを見ている自分、主なる神は私たちをありのまま、真実の姿を見ておられます。全部見通しておられます。私たちが、主が私たちを見ておられるように、自分自身を見られるなら、それはすごい恵みです。でも多分、私たちの多くは、主が見ておられるように自分を見たら怖いと思うだろうと思います。辛い思いもするでしょう。いろいろ気付かないことを気づくようになるのです。それと同時に主の愛にももっと気づきます。主は愛をもって、私たちのいろいろな罪などを見ておられるのです。それを決してよしとするのではないですが、回心してほしいと主は望みながら、それと同時に、私たちを無限に愛しておられるのです。主の目を通して自分のことを見られるのなら、主の愛と自分の罪がもっとはっきり見えると思います。自分の罪、はじめて罪というものがどういうものかが、そこでわかると思います。それは大きな恵みです。私たちの人生の新たな出発です。キリストに従って生きていく信仰の歩みの中で、一段と先へ進み行くような大きな進歩になるのです。特に今年の四旬節においてその恵みを願いましょう。

 

主が私たちを照らして、今、ご自分に近づくために必要な回心、罪をわからせて、回心の恵みを与えてくださるように祈りましょう。