主の降誕 2022年12月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 52章7~10節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節

福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節

 

<お説教要約>

初めに言(ことば)があった。初めに神は天地を創造された。初めに神は言を発して言われた。「光あれ。」こうして光があった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。また、うち勝てなかった。

 

ここは神秘的なクリスマスの奥深い意味を指しています。クリスマスの由来は聖母マリアが妊娠した時からではなく、天地創造の前から始まったのです。永遠の言。永遠にあわれむ言、神のみことば、神であった言、時間に入りました。それは喜ばしい知らせです。

 

言に命があった。人間を照らす光であった。その言が世に来られ、人を照らすのです。だから教会は今日特に喜びます。この世に命と光、救いが生まれたのです。光に打ち勝てなかった闇が追い払われて、救い、光、平和がもたらされました。

 

でも、悲しい面もあるのです。言が世に来られた時、世は言によって成りましたが、世は言を認めなかったのです。言は自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。救いの光が世に来られたのに、受け入れなかった人もいます。それはイエスがニコデモに説明しているところです。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光より闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行うものが皆光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。悲しいことです。

 

結局、孤独なことでもあるのです。まるで致命的な病気にかかっている人がその病気を治せるお医者さんの言うことを聞き従いたくないから、そのお医者さんの指示を拒むようなものです。闇は周りにもあります。でも、一番私たちが関心を持つはずなもの、それは自分の中の闇です。心にやましいところがある人は、それが明るみにならないように闇を好みます。それを認めること、それが唯一の救いです。この闇は死の闇でもあるのです。光はそういう人を救うためです。

 

イザヤの預言にもあるように

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

 

人間はどうしてそこまで拒むのでしょうか。私たちは必然的に愛しています。その人間の愛のやり方です。何を愛しているかによって、私たち自身が大きく変わります。主なる神を軽んじるほど、自分を愛する人は、主の御心より自分自身を優先させます。それは闇の行いです。それによって心にやましいところができてしまいます。

 

でも、ここにも良い知らせがあります。言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えました。それはすごいことです。罪のゆるしはもちろん、それに含まれています。でも罪をゆるしていただいて、光の方に連れて行っていただくだけではなくて、主なる神と新しい関係に入れます。その為に、キリストが生まれたのです。神の子キリストが、聖母マリアの子となって、この世に生まれた目的は、私たちが神の子となる資格をいただく為です。この人々は、血、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって呼ばれました。キリストがニコデモに説明しているように、人は上から呼ばれなければ、天の国に入れないのです。私たちには2つの誕生があります。1つは皆共通の母親からの誕生、もう1つは、主の恵みによって、神によって呼ばれる上からの誕生、新しい命、光をいただく誕生です。

 

今、私たちは盛大にクリスマスを祝っています。何よりも喜ばしい知らせです。教会は絶えず毎年偉大な神秘を祝って、喜んで神に感謝して賛美しています。私たちにとっては、もっと深い恵みになることもあります。ここにあるように、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えると。もっと心から主を受け入れ、信じるなら、それだけ私たちはますます神の子になる資格を持つようになります。そして、主から恵みと真理、光、命、平和をいただけます。