年間第32主日 2022年11月6日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節

第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節

福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節

 

<お説教要約>

今日は一つ、キリストがサドカイ派の人々と議論する場面が読まれます。注釈にもあるようにサドカイ派は復活を信じてなかった分派です。そしてその意味でキリストに質問をしてくるのです。疑問を仕掛けている感じですね。そこでキリストははっきりと復活があるということを教えて、そして聖書からの引用によってそれを証明するのです。まあユダヤ人の間では議論は今でも続いていると思います。現代社会では死後の世界について話をしたら、中にはあるひとは“人はもう知ることなどできないんだ”と言います。だってあの世から戻った人がいないのだからと。まあそういう事を言う人も少なくないと思います。

 

ただ教会としてはそれは違いますとはっきり言います。あの世から戻って来た人がいます。イエス・キリストといいます。今日はキリストは言葉で復活のことを伝えています。でも何よりもご自身の復活によってそれを証明して確実なものにしました。そしてどうやってキリストが復活されたかと聞くなら結局教会の存在自体が復活の証拠になります。 というのは当時のユダヤ人の感覚では、もしキリストが十字架で亡くなってそれでおしまいだったとすれば全部おしまいのはずでした。当時のユダヤ人の弟子たちにとっては、それだったらイエスは完全な失敗です。何の希望も考えも残らない人です。聖パウロも聖書で言っているように、木に架けられた人は呪われていると。だから立法から見ればもう呪われたものとさえ言えるでしょう。一般社会では十字架の死は何よりの恥と苦痛でした。だからそういう十字架に架けられた人のことは誰も触れたくもないし、話したくもなかったのです。

 

でもそれだったら弟子たちは宣教に出かけなかったはずです。出かけなかったに違いないです。でも使徒たちが出かけなかったら、宣教もしなかったし新しいキリストを信じる人も生まれてこなかったから、それで教会もその時点ですでに絶滅、途絶えていたはずです。それだったら今は教会など無いに違いないのです。その意味でも教会の存在自体がキリストが復活された証拠なのです。でもそれだけではなく、やはりあの世から戻ってこられたキリストはあの世の有り様を知らせてくださったのです。今日の福音書でもそうですが、結局キリストは復活のことは証明しながらもただ一つ注意しているんですね。それは注釈にもあるように復活の有様がこの世の有様と全く異なることを指摘しています。そういう娶るものも継ぐものもないという表現で。だから新しい生命、体は復活します。でも新しい命になるのです。キリストご自身の復活の後の姿を見ればそのことが分かるのです。弟子たちの前でちゃんと魚を食べました。まさにその体を持って復活したのです。食べられます。でもその反面、現われては消えたりするのです。それは今の体のことではないのです。異なった体のありさまになるのです。

 

それはキリストご自身が知らせたことですけど、でもそれは結局聖パウロが第二朗読で話しているように主なる神はキリストを通して、特にキリストの復活を通して私たちに永遠の慰めと確かな希望を恵みによって与えてくださったのです。その確かな希望、というのはキリストご自身は復活された、でもそれはキリストの復活に限られてないのです。聖パウロも説明しているように私たちの復活の希望をも与えるのです。そのために教会は信仰宣言において二か所で触れています。まずキリストご自身について、死んで陰府に下り三日目に復活していると宣言します。でもその後は体の復活を信じます。それも宣言します。それは私たちの体の復活のことを指しています。そしてその希望は非常に意味深い、意味が大きいのですね。というのは人間は希望を本当に必要としています。希望がなければすごく生きづらいです。だからそのことに関して聖パウロも言います。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めなものです。」

 

というのはこの生活を超える、死を超える希望を持つということはそれこそ確かな希望、大きな力になるのです。人間はいずれ死を迎えることも決まっています。そして死は人生全体に鍵を差します。その鍵の外で中で暮らしている人間は確かな希望などそれほどないのです。でもそういう死を超える希望、復活の希望はそれこそ私たちの生活、生き方を支える希望です。

 

所々である話を聞きます。例えばお医者さんによっては信者の死に方とそうでない人の死に方の違いが分かるそうです。聞いた話では信者の場合はその患者の子供との関わりが、よりやり易いそうです。死の前で希望を持っているのです。別のところで読んだ話ですが、ある信者でない男の人が信者だった奥さんの死に方を見た時、感動してそれで自分もキリストを信じようと思って洗礼を受けたそうです。そういう風にこの世の生活を超える希望を持っている人は、その人こそもっと前向きに生きることにもなるし、その希望に支えられてそしてやがて自分が死を迎える時はもっと安らかに、信頼を持って死を迎え主の元に行って永遠の命に入ることができます。