年間第26主日 2022年9月25日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 アモス書 6章1a、4~7節

第2朗読 テモテへの手紙一 6章11~16節

福音朗読 ルカによる福音書 16章19~31節

 

<お説教要約>

今日はキリストが一つのたとえ話をします。最初に特にファリサイ派の人々に言われたそうです。ルカは今日読まれて箇所の少し前に「ファリサイ派の人々は金に執着している」とそういう風に伝えています。その意味ではこの金持ちと貧しい人の例え、その所にも触れていると思うのです。でも金持ちはお金があるからだけの問題ではないのですね。

むしろ第一朗読で預言者アモスが咎めているような態度、この金持ちは家の門前に横たわっている貧しい人でさえ顧みない自己中心的に遊びにふける、その姿が問題点なのです。そこはそのファリサイ派にも当てはまるところです。ファリサイ派だけではなくキリストはお金について私たちにも忠告することがあるのです。そのもう一つは後に来ます。それはファリサイ派の不信仰に関するものです。と言うのは金持ちが言うのです「死者の中から誰かが行けば悔い改めるでしょう」。でもアブラハムは「モーゼと予言者を聞くが良い」。更に言います「モーゼと預言者に耳を傾けないのならたとえ死者の中から生き返る者があっても、その言う事を聞き入れないだろう」。

 

そこはファリサイ派のイエスに対する態度も指しているのです。と言うのはヨハネによる福音ではイエスは別の時、ファリサイ派の人に言った言葉を伝えています。「あなた達はモーゼを信じたのであれば私をもう信じたはずだ。モーゼは私について書いているからである。しかしモーゼの書いた事を信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることができようか。」

 

しかも死者の中から生き返った者があっても信じないのです。キリストご自身は実際に復活されたのです。死者の中から復活されても、ファリサイ派とか多くのユダヤ人はまだ信じないのです。モーゼと予言者を本当に信じていないからです。

 

私達は同じとは言えないのです。キリストを信じてキリストに従おうとしています。でもそこでも問いかけとしてはどこまで信じているか、それはやはり信仰の歩みの中で大切な所です。信仰のあゆみは「歩み」です。足踏みではないのです。でも信仰が足踏み状態になったら本当の歩みにはなれないのです。さらに深まっていくはずです。ただ、深まっていくには妨げるものもあるのです。一つは私はよくある妨げとして主なる神の愛、キリストの愛に対する意識と言いましょうか。というのは現在の教会では主の愛、キリストの愛をすごく強調しています。それは全く正しい事です。それは全部そこから始まるからです。問題は皆それを何回も言葉を聞いて頷いて頭ではわかっています。でも実感がなかなか湧いてこない、というような現象がよくあるのではないかと思います。頭でわかっていて実感が湧いてこない状態はやはり信仰を深めるための妨げになっています。実感が湧いたのならそこでわりに自然に主に近づきます。というのは主の愛をもっと実感すればわりに自然に私たちの方から主をもっと心から愛するようになるのです。その愛からもっと主に積極的について行こうと、近づこうとするのです。ですから信仰の歩みに対してすごく大切なところなのです。でもどうして湧いてこないかと言うと人によってさまざまな原因があると思うのです。一つ思うのは、主に対する態度でしょうか。というのはどうしても私たちは現実の今の生活をもっと強く意識するのです。今の生活の中で助けが必要な悩み苦しみを先に考えることです。それで主に助けを求める祈りはよくあるのではないかと思います。まあ助けを求めることはそれも最もです。主もそうするように言っておられます。ただそこのちょっと微妙なところは自分の信仰はそこが中心になるなら、おもに助けを求めることの信仰の在り方だったらどうも主を求めるというより、そういう恵みがあるから主に助けを求める、自分のための信仰になる恐れがあるのです。それはまた妨げにもなるし、そしてその実感が湧いてこない理由にもなるのです。どちらかというと人がキリストご自身、主なる神ご自身を求める心になったらもっと愛を実感するようになるのです。自分が特別にこれといった助けではなく、ただ生きるには自分の存在のために主を求める、もっと心から主に近づこうと、主をもっと深く知ろうと、そういう心になれば結局主のために生きようとするのです。そういう心になればもっと主が私を愛してくださる事の実感が、もっと湧いてくる可能性が大きくなると思います。

 

そのために私も以前から一つの祈りを勧めています。

 

「主よ、あなたの愛をもっと深く悟らせてください。」

 

それはとても良い祈りだと思うし主に喜ばれる祈りです。深く愛している人ならその相手が、自分がその人を愛していることをその相手自身に分かって欲しいと思うのは当然のことです。そして相手がわかってくれればきっと自分を愛してくれる、とそういう希望、期待も持てます。主なる神も同じだと思います。私たちにご自分の愛をわかってほしい、そしてその愛がわかれば私たちはもっと自然にご自分を愛するようになると、そういうことを求められていると思います。ですから私たちの方から同じことを求めるなら主は恵みを与えてくださるのです。