キリストの聖体 2022年6月19日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 創世記 14章18~20節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節

 福音朗読 ルカによる福音書 9章11b~17節

 

 

<お話の要約>

今日の祝い、キリストの聖体は、キリストの愛の秘跡とも呼ばれています。

キリストの愛を示すことの1つの極めです。キリストの受難と復活に愛を示されました。でも、それが過去の出来事としてではなく、今も続くように、ご聖体を私たちに残してくださいました。ご自分は世の終わりまで私たちと一緒におられ、絶えず私たちにご自分を与えるためです。その秘跡の前で私たちは、自分の態度を考える必要があると思います。

 

第2朗読で、聖パウロは聖体の制定、私たちが言うミサ、最後の晩餐の席でのキリストのはじめの出来事を伝えています。でもそのあと、聖パウロは警告しています。

「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(1コリント11•27〜29)

かなり厳しいことですけど、すごく重要なことです。ここ最近の教会の歴史を振り返ったら、第二バチカン公会議ごろまでだと思いますが、この点はすごく強調されて、ある地域では、人は告解をしないとご聖体をいただかないようにしていました。それは、第2バチカン公会議で考え直して、信仰の上では神様の慈しみと愛の思いが弱いと言う点もありますし、人に過剰な罪悪感を養う恐れがあるのではないかという思いでやり方が変わりました。実際に今でも教会の教えとして、人は大罪を犯している場合は、必ずご聖体を受ける前に告解をするべきです。それは今も変わりません。小罪はミサのはじめの告白によってゆるしの祈りがあって、ご聖体を受けてもいいのです。

 

でも以前の極端な態度は、反対の極端になる恐れがあります。あまりにも気にしていたから、今度はあまりにも気にしないようになったのではないかと。それでは結局キリストを甘く見るようになるのではないかと思います。あまりにも心の状態を見つめて、気にしすぎているところから、心の準備はしないで、平気で習慣的にミサに参加してご聖体をいただいて、家に帰って他のことをするというような状態になっているのではないかと思います。それではあまりに軽い感じになってしまう恐れがあります。キリストご自身、私たちにご自分を与えてくださるのです。そこまでの神秘を軽く見るのは、聖パウロが言っているような態度になるのではないかと思います。

 

心の準備。1つの大事なポイントです。いずれにしても二つの極端な態度は、結局、自己中心的な態度です。昔の厳しいものは、自分の思いで自分を見つめて、神様は厳しい方という思い込み、自分の思いで神の愛をはかるというような定義でした。でも最近強くなった態度は、反対にキリストの愛を真剣に受け止めない態度で、どれほど主は示しているか、それがまるで当たり前のように見ていると、恩を忘れるような感じになります。罪のことはもちろん、聖パウロが言う“主の体をわきまえずに”、秘跡を通して示された主の愛をわきまえずに受けると、それは裁きを受けると受け止めていいと思います。そこは特にポイントです。主の愛をわきまえるということは、主を大切にすること。それはミサのための準備のことも考えて、特に心の準備です。いろいろ忙しい中で、バタバタして急いで教会に行き、急いで帰り、他のことをする、現代生活ではなりがちなことかと思います。でもそれは結局、キリストのことより自分の他の生活のことが大切という態度になるのではないでしょうか?本当にキリストのことを大切にするなら、大切なことのために時間を割きます。忙しくてもミサの前の心の準備、聖書を読んだり、キリストのことを思い巡らしたり、特にキリストが示された愛を思い巡らすことは重要です。愛は愛を呼びます。私たちがもっと主の愛をわかったら、もっと進んで感謝を込めて、主を甘く見たりしないのです。聖体拝領の時に自分が何をしているか、キリストが何をしているか、意識しながらできると思います。

 

自分が聖体拝領をするときは、キリストご自身を自分に与えてくださる大きな愛を感謝して、受け入れて、主に自分の全てを捧げて、主をいただいて、主の力によって、また普段の生活に戻って、生活の中でキリストに従うようにする。これがキリストを大切にするということです。そして、ふさわしい心で聖体拝領をするということです。