四旬節第2主日 2022年3月13日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 創世記 15章5~12、17~18節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙一3章17~4章1節

福音朗読 ルカによる福音書 9章28b~36節

 

<お話の要約>

今回は四旬節第二主日で、毎年この主日にはキリストの変容の場面が読まれます。これは特に四旬節の間に読まれます。どうしてでしょうか?今年はルカによる福音です。実はこのすぐ前にペトロの信仰告白があります。キリストが「私を何者だと思うのか」と尋ねた時、ペトロは「あなたは神の子メシアです」と答えます。そのあとすぐにキリストはご自分の受難を予告して、自分についてきたいと思う人は十字架をとってついてきなさい、と言われます。その話が終わるとこの場面がきますが、これは今の変容の場面の意味を示しています。

 

 

ペトロは信仰を告白しました。それをもっと明らかにしているのです。そこで弟子たち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、はキリストの栄光を垣間見ます。キリストが本当に神の子、メシアであることがもっとはっきりと示されたのです。十字架の受難についてもエリヤとモーセが現れて、キリストがエルサレムで受ける最後について話しています。つまり、キリストの受難と復活を予告しています。これはキリストが誰であるかをもっと弟子たちに示しています。受難のことを語るモーセとエリヤは旧約の代表者です。モーセは律法の、エリヤは預言者の代表者として、旧約全体がそれを裏付けしていることの証拠を見せました。そして、弟子たちもキリストと同じように十字架の道を歩むようにと。それがキリストの栄光へ入る道なのです。キリストはそのようなメッセージを弟子たちにも私たちにも向けられたのです。

 

これは今日の第二朗読でパウロも説明しているところです。「私たちはキリストの来られるのを待っています。キリストは私たちの卑しい体を、ご自分の栄光あると同じ形に変えてくださるのです」。私たちが将来いただくことになっている栄光、もともとキリストの栄光、がここにあります。私たちはキリストと同じように十字架の道を歩むとことによって栄光にあずかることになります。

 

これは四旬節の大事なテーマです。回心の道です。十字架を黙想して復活された栄光も黙想しましょう。ここに四旬節の意味も示されます。回心することといえば、これもパウロの手紙に書かれています。「涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。十字架に敵対しているとは?受難に敵対すること、自分のことを見ると私たちは苦しみや十字架を避けようとしますが、キリストについていきたい人は十字架をとりなさい、という意味です。しかし、私たちには人間の弱さがあるので十字架を背負わないでついて行きたいと思うところもあります。

 

もう一つ根本的なこととして、“敵対している人”の特徴はこの世のことしか考えていないことです。まさに現代社会がそれです。私たちは現代世界に暮らす者としてその影響を受けています。例えば、空気汚染は望んでも望まなくても、人はその中に住んでいれば汚染した空気を呼吸します。それは体内に入り、体に影響を及ぼします。外からの影響で私たちもこの世のことしか考えない誘惑を受けます。また特に強い環境があります。人工的な影響、SNSとかマスコミの影響で、情報に捉われてしまいます。

 

その中で特に大きいのは死そのものを無いようにしようとする風潮です。末期がんのケアをしている或る精神科の医者の話ですが。彼自身は宗教を持っていませんが、死を考えないようにしている社会、死を避ける社会はいつか破綻するだろうといっています。人は必ず死にます。昨今は新型コロナウイールス関係で人は死亡率を気にしますが、人間一人一人の死亡率は100%です。それを考えないようにしようとするのはいかにも現実離れです。宙に浮いています。確かなものがないからです。現実から離れては確かなことはありえません。

 

しかし私たちは違うはずです。信仰の恵みによって、主の栄光にあずかる希望を持っています。しっかり死と向かい合うのです。そのように生きるはずです。四旬節の灰の水曜日に配る灰もそれを指しています。「あなたは塵であり、塵に帰っていきます」。それを思い出して心にとめること。人生をこの意味でとらえること。上記の先生は同じことを言いました。「死を見つめる人は生き方が変わります」と。心理学的にそうなら信仰によってなおさらのことです。多くの人はこの世のことしか考えませんが、私たちはここに示されている希望を持つことができます。最大の希望はこの世を超えています。将来に示される希望。この世での生活をもっと主の前で実り豊かなものにしていくこと。聖パウロが言うように「私たちの本国は天にあります」。天国に根をおろしているとこの世に枝を張って、もっと豊かな実を結ぶことができます。死を見つめること自体、神への信仰を生きることとして重要であると同時に、私たちの生活そのものがもっと主に喜ばれるものになります。