四旬節第1主日 2022年3月6日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 申命記 26章4~10節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 10章8~13節

福音朗読 ルカによる福音書 4章1~13節

 

お話の要約

毎年四旬節第1主日は、キリストが誘惑を受ける場面です。それはキリストの救いの業の一つの大事なところです。というのは、救いが必要とされたのは、最初にアダムとエヴァが誘惑に陥って罪を犯して、人間はその影響を受けたのです。アダムとエヴァの罪は、特に神に対する信頼が足りなかったこと、従順でなかったことです。キリストも同じような誘惑を受けます。誘惑を受けると予想されたのですが、アダムとエヴァの誘惑を癒す、打ち勝つためです。ここでの悪魔の誘惑は、主に信頼しないように、主の代わりに自分が神のようになるようにという世の誘惑です。

 

後のイスラエルの歴史に見られるように、イスラエルは主に対する信頼に欠け従順でなくなって、他の神々を拝んでしまった。キリストがこの世に来られたのは、悪魔の業とその支配とを滅ぼすためです。そのことがあるから、まず悪魔の誘惑に打ち勝ちます。今日の福音にあるように、悪魔は最後に打ち破られたのですが、時が来るまでイエズスを離れます。その時とは十字架の時です。十字架を通してイエズスは悪魔の業と支配を完全に滅ぼして、本当に主となられた。第2朗読で聖パウロが言っているように。

 

それはイエズスご自身がなさったことですが、私たちのためのものでもあります。私たちは既に主において救いの恵みに与っていますが、その救いはまだ完成されてないので、私たちはまだ誘惑を受けます。でも、キリストに結ばれてキリストの内に、私たちにはその誘惑に打ち勝つ力も与えられています。もちろん、それは私たちが求めるならばということですが、聖パウロも第2朗読で言っています。「主の名を呼び求める者は誰でも救われる」と。呼び求めることはすごく大切です。どこかで読んだ話ですが、ある修道者がひどい誘惑を受けて苦しみ誘惑に陥りそうになって、「イエズス助けてください!」と叫んだら、すぐイエズスは助けて悪魔を追い払って救ってくださった。その修道者が「どうしてもっと早く助けに来られなかったのですか?」と尋ねたら、主は「どうしてもっと早く私を呼び求めなかったのか?」と言い返されたという話。

 

ここは一つの大事なポイントです。というのは、私たちが誘惑を受ける時、だいたい心は複雑で、主に従いたい反面、誘惑に惹かれてそれに陥りたいという気持ちもある。両方だから葛藤があるのです。常に断固として抵抗することは難しいし、心は複雑になります。その意味からも、キリストは私たちに模範を示しています。どうやって打ち勝つ力を得るかというと、キリストは3回とも神のみ言葉で誘惑を退けた。ここに神のみ言葉の力が示されたのです。神のみ言葉は聖霊の働きによって働くもので、聖霊は今も信仰を持って心に収める人に働いておられます。ここでは私たちの常の態度が問われます。私たちは主のみ言葉に聴き従おうとする心、主に信頼しようとする心、それをまず強める必要があります。主に信頼しようとする心、み言葉を心に収めて聞き従おうとする心を生き方の基準にすると、私たちは誘惑された時ももっとキリストと同じように、キリストの内にキリストの恵みによって、み言葉をもって誘惑を退けることができます。

 

誘惑されるとき一つ問われるのは、「私は本当に何を望んでいますか?主に従いたいのか、罪に陥りたいのか、どちらですか?」ということです。そこまで考えられるのは、既に誘惑に抵抗する力ができているということです。ついつい誘惑された時は主のことはあまり考えないで、誘惑されたまま流されるというようなことが結構あります。私たちにも主において誘惑に打ち勝つ力が与えられるのですが、ここも一つの四旬節の訓練というか、み言葉を心に留めることによって、誘惑される際にそのみ言葉により頼んで主の力を受ける、そういう心がまえ、心の訓練です。この四旬節を通して私たちがその心を育てていければ幸いだと思います。私たちも誘惑をますます退け、主にもっと深く結ばれて、復活祭をもっと心から深く祝うことができるのです。