年間第2主日 2022年1月16日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 62章1~5節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章4~11節

福音朗読 ヨハネによる福音書 2章1~11節

 

 

<お話の要約>

きょうは、キリストのカナンでの奇跡。これはどちらかというと、もうひとつの「公現」です。その漢字からわかるように「公に現す」。先々週は、キリストのことが星によって公に現されて、博士たちが拝みに来たのです。先週は、キリストが洗礼を受けて、聖霊が鳩のかたちをして来られたことと、御父の天からの声によって公に現されたのです。そしてきょうは、キリストが最初のしるしを行なって、その栄光を現されたのです。栄光とご自分のことを公に現した出来事です。

 

このことは、かなり意味深い場面です。特に、聖ヨハネの福音書で「しるし」とよんでいるところを他の福音書では「不思議のわざ」、「ちからのわざ」とよんでいるのを、ヨハネは「しるし」とよんでいます。ヨハネはどちらかというと、ちからとか不思議さより、その意味を強調したいのです。何を指しているのか。これを深めたらいいと思います。実は、この意味には、いくつかのレベルもあるのです。

 

ひとつは、これは最初のしるしでもあるから、最初のことは特に重要です。たとえば、誰か大統領とか総理大臣が、初めの演説でいろいろなプログラムやこれからのことを示します。そこは、後のことも全体も指す場合があるのです。キリストの場合もそうです。それならば、この最初のしるしがどのように示されているかというと、ひとつは、水をぶどう酒に変えられたのです。しかも、水がめをいっぱいにして、上等のぶどう酒に変えられたのです。最後のところにもあるように、世話役は花婿に「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言ったように、そこまで出したぶどう酒よりもっと上等のものです。それはひとつのしるしとして、結局、キリストが始める福音宣教をとおして与えられる恵みは一番良いもの、旧約時代に比べたらもっと優れた恵みです。旧約時代をとおして、イスラエル人に対して、主は数々の恵みを与えてくださり、救いのわざを現したのです。でも、これはすべてにおいて優れているものです。一番良い恵み、一番優れた恵みを、主はキリストが来る時まで取って置かれたという感じです。

 

でも、どうしてそんなに優れているかというと、それは結局、キリストご自身のことです。キリストご自身が来られて、あらゆる恵み、優れた恵みを与えられます。というのは、私たちが先ごろ祝ったクリスマスの神秘です。神の子が肉となって、私たちのあいだに宿られたのです。神の子がまことの人間となられたことを祝います。それは旧約時代より、あらゆる恵みより優れた恵みです。というのは、旧約時代は、主なる神は、民とご自分の関係を示されたのです。そして近くに在って、助けてくださったのです。でも、第一朗読にあるように、本当に深い関わりに結婚というイメージも抱いていたのです。「あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる」。それが、結局、キリストにおいて頂点になったのです。キリストのうちに、人間と神さまが一致してひとりになったのです。これは婚礼の席でのしるしでもあるから、それも考えたら、神性と人間性がキリストにおいて結婚したというようなことも言えるのです。一致したひとりになったのです。そしてそれによって、私たちと神さまの一致が、新しい道が開かれたのです。真にいのちであるキリストのうちに、私たちも主なる神と一致して、まるで結婚したひとの一番親しい親密な関係を超えて、さらに親密な関係に結ばれるという道が開かれます。

 

このことは、私たちの想像を超える恵みにもなるのです。ただ問題は、私たちがそれを本当に望んでいるのかどうかというところです。まずは、想像しにくいところがあるのです。神さまとの一致がどういうものか、自分は今まで経験したことがないから、どういうものかわからなくて、わからないことを求めるのは難しい面もあるのです。でも、その意味では、キリストのことはまた新しい道になるのです。というのは、目に見えない主なる神との一致はもっともっと考えにくい、わかりにくいです。でも、人間となられた神の子は、少なくとも私たちはもっとイメージできるのです。私たちと同じ人間となられたキリストに対する思い、キリストに結ばれることはもっと考えられるのです。もっとわかりやすいのです。それは、結局、主のご計画です。私たちを自分ともっと人間のレベルで、人間の理解に合わせたかたちで、私たちに近づいて、ご自分と結ばれる道を開いてくださったのです。

 

でも、実はもうひとつの問題があります。私たちは原罪の影響で、アダムとイヴの罪で、どうしても自己中心的で傲慢なところがあります。原罪は完全には消されていないのです。そういうところがあるから、主なる神に結ばれることは、自分の自由が奪われるのではないかとか、いろいろな抵抗を何となく感じるところがあるのです。これはとても大きな優れた恵みと言われても、どうも恵みより重荷に感じるような心の動きも出てきます。そこでは、信仰の道を歩む者としては、それはひとつ特に深めるべきところです。神さまに近づきたいという思いがある場合でも、自分の中の抵抗もあるのです。その抵抗を見つめて、そこでもうひとつの深い回心の道に入らなければ、主が望んでおられるところまで行かないのです。実際には、私たちは自分の心を本当にわかって、私たちが心の奥底で何よりも望んでいることですが、主なる神と一致して、主なる神と愛の交わりのうちに生きることは人間の最高の幸せです。