王であるキリスト 2021年11月21日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ダニエル書 7章13~14節

第2朗読 ヨハネの黙示録 1章5~8節

福音朗読 ヨハネによる福音書 18章33b~37節

 

お話の要約

年間主日の最後の主日はいつも「王であるキリストの祝い」です。今年の場合、そのための朗読は、ヨハネによる福音からとられています。キリストが十字架にかけられる前のピラトによる尋問の場面です。この尋問の重要なポイントは、キリストが王であるかどうかというところです。キリストは自分が王だと名乗りませんが、「わたしの国は、この世には属していない」と言われます。英語訳を見れば「わたしの王国はこの世に属していない」となっています。それなら、注釈にあるように、ある意味では自分が王だと認める表現になる。ただはっきりと自分が王と言うなら、ピラトの理解はずいぶん違うから、誤解を招く表現になります。でも、その「この世に属していない」キリストの王国、「属していない」というのはどういうことか、ちょっと考えたほうがいいと思います。

 

結局、この世のあらゆる世界の国と違う王国、国です。たとえば、この世の国は、ある土地を支配して政治的、経済的、軍事的な力をもって国民を治めて、国民の生活を保障する、守る役割があります。それと違って、キリストの王国は、きょうの叙唱にあるように「真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国」、そこにひとつ大きな違いがあります。この世の国だったら、国民から税金を集めて年金とか、治安とか警察など、いろいろな働きで国民の安定した生活を保障します。でも、キリストの場合は人から求めるのは税金ではなく、愛と正義と聖性、そういうようなところを求めます。その代わり、キリストはこの世の安定した生活ではなく、永遠の命を与えてくださいます。その意味では、この世を超えることです。または、この世の国は、ほかの国の侵略に備えて、その国と国民を守るために軍事力を持っています。キリストの場合は、もうすでに勝利をおさめたのです。キリストは十字架と復活によって悪魔の支配を打ち倒して、自分の王権を打ち立てます。このことは、信仰宣言にも見られるところです。信仰宣言では、キリストは「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られます」。

 

天に昇って、全能の父である神の右の座に着かれたという表現は、キリストの王としての即位式を意味しています。昇天の時からずっとキリストは御父の右の座に着かれて、世の終わりまでずっと支配しておられます。でも、そこでは、キリストが悪魔の力に打ち勝ったと言っても、悪魔の力はまた反乱することはあります。キリストにこの世の者が全部従ってはいないのです。その間、キリストはずっと支配しておられます。最終的に、生者と死者を裁くために来られる時がある、キリストの支配が全人類に示されています。そこもひとつの違いです。と言うのは、この世の国は、国民が生きている間は支配して治めていますが、人が死んだら、この世の国はその人に対して何の拘束力もなく、何もできません。でも、キリストの場合は、人が死んだらキリストの前に出て、自分の人生のこと自分のことをキリストに申し述べることになります。キリストは生者と死者を裁くために来られます。その王権は死を超える王権です。

 

その意味では、キリスト者というものは、キリストがまだ現れていないのに、すでにキリストの支配、王としての権限を認めているのです。それがキリストを信じることの意味です。そこには、私たちにひとつの問いかけがあります。キリストは客観的にこの世をすでに支配しておられます。反乱する悪の力がまだ続いても、主が許す範囲で続いています。最終的には完全に滅ぼされます。その間は、人がキリストをどう信じるか信仰の歩みの段階として違いもあります。もっと簡単な信仰と言えば、どちらかと言うとキリストが私のためにいるような存在として信じている、そういう一番未熟な段階と言ってもいいでしょう。いろいろな悩みとか苦しみから私を助けてくださるかたとしてキリストを当てにして、信じている。どちらかと言うと、主が私のためにいろいろ助けて恵みを与えてくださるかたとして信じています。でも、もっと深い信仰の段階は、むしろ私がキリストのために生きるようになる段階です。それは、キリストを私の王とし、私の主とする時です。私個人の主、自分のためにではなく、主のために生きようとする決心。それが自分の主です。それは初代教会の信仰でもあります。

 

聖パウロが言っています。聖霊によって私たちは「イエスは主」と言えるようになります。「イエスは主」という表現は、初代教会の一番短い信仰宣言です。その意味は、ちょうどきょうの祝いのところを意味しています、イエスは主と信じることは、イエスはいまも御父の右の座に着かれて支配しておられるかたであると信じて、そして私も個人的にも、キリストは私の主として、私の心を支配するかたとして受け入れてキリストに聞き従おうとする、そういう決心の信仰です。