年間第32主日 2021年11月7日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 列王記上 17章10~16節

第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章24~28節

福音朗読 マルコによる福音書 12章38~44節

 

お話の要約

皆さん、こんにちは。今日の福音書は対照的な話です。キリストは神殿に座って人の様子を見ていて、二つの姿に気づきます。大勢の金持ちはたくさんの金を賽銭箱に入れています。それに対して貧しいやもめはレプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランスを入れた。注釈によると、それは100円足らず位のものでしょうか。そこで主は、弟子たちを呼び寄せて言われます。「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。」もちろんそれは金額的なことを言っているのではなく、金額的には確かに金持ちの方がもっと多く入れたけれど、主が言っているのはその割合のこと、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

当時の背景として、このやもめは飢え死にしなかったと思います。注釈では、当時の街道、ユダヤ人の集まるところでは慈善の業をとても大切にしていたので、このやもめのような人々を援助していました。たぶん、やもめは食べていかれたと思いますが、そうだとしても確かに、持っている金を全部あげるのは凄いことで、やもめの心を表しています。すべてを主に委ねる、主に捧げる心、それは主が褒めているところです。キリストが何度も繰り返して言われるように、主なる神は外側ではなく人間の心を見ておられます。

 

私たちに当てはめてみると、金銭のことも考える機会になると思いますが、もう一つは時間のことです。今の時代は凄く忙しいから時間が足りない。それでも主に自分を捧げる人は、時間に於いても主のことを大切にするのです。もし人が忙しいからと言って、有り余る時間、余裕のある時間だけ祈ってミサに参加するのであれば、それはあまり自分を捧げていないことになります。自分を捧げる人は、忙しくても主なる神だから時間を割いて祈ってミサに参加します。自分が本当に何を大事にしているかが、時間の使い方に表れます。

 

更にもっと深く考えてみると、この人間の捧げる心には二つの心があるのです。人間は神に対する憧れが心の奥底にあり、自分自身をすっかり主なる神に捧げたい、与えたいという願望があります。人間の本性の深い所で、意識していないけれど心の奥底に潜んでいます。もう一人の自分はもう少し意識しているでしょうが、主なる神に対する恐れ、心配、特に自分を与えるなら自由を失うのではないかと警戒しています。主なる神に惹かれると同時に警戒している、そういう二つの心が同時にある。どちらを選ぶか、人間の自由も働きます。自分を主に与えることを警戒している人は自由を失うのではないかと心配していますが、それは偽りです。聖書の最初の原罪のところを読んだら、それこそ蛇からの誘惑をアダムとイブが呑みこんで口車に乗せられて神様に逆らって離れたことがでてきます。

 

神様に自分を捧げることこそ本当の自由の行為、一番深い自由です。しかし、人間はそれを自由を持ってしないと本当に捧げる者にはならない。自由があるからこそ、本当の信仰になるのです。自分の本当の使い方、自由の実現、完成、それと同時に人間の本性の完成を意味しています。キリストを信じていないので警戒することはよくありますが、自分の心にキリストを迎えたいという思いがあっても、心のある部分についてはキリストに対して張り紙を出して、「立ち入り禁止、これより奥へはご遠慮ください」というような動きが同時にあります。本当にキリストに近づきたいと思っているなら、あえてその心の部分を極めて見つめて、そこで一つの決心が求められます。「私はすべてを主に捧げます。キリストを私の主とします」という決心は、人を本当に自由にします。キリストの言葉通り、「あなたは私の言葉を守るなら真理を知ります。真理によって自由になります。」