年間第24主日 2021年9月12日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節

第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節

福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

 

お話の要約

日本では30何年か前にNICEという宣教のための全国的な会議がありました。その時いろいろな話し合いの中で信仰と生活の遊離という大きな課題があげられました。信じていることと実際の生活の中にずれがある、という指摘です。でもこれは現代日本の問題だけではありません。歴史を見れば教会全体の最初からの課題だったと思います。聖書にも示されています。

 

たとえば今日の福音朗読ではペトロがキリストに対して信仰告白をする場面が読まれます。キリストの「私を何者かと言うのか」との問いに対してペトロは「あなたはメシアです」と答えます。それは正しいことです。そこでペトロは信仰を告白しました。そう信じていたからです。しかし信じていても生活ではまだずれ、遊離がありました。告白したメシアはペトロ自身の内心の思い、当時の一般的なイメージであって、どちらかと言うと政治的な解放者、昔のダビデ王のような昔のメシア、イスラエルの敵を破って国を大いなるものにする人のイメージでした。これが一般の人が期待していたメシアでした。ペトロはそのように限られた理解であったのですぐにつまずいてしまいます。

 

キリストがご自分の受難を予告するとペトロはそれをいさめ始めます。「とんでもないことです」というのが彼の反応でした。メシアならそんなことはあるはずがないと。キリストはそれを正します。「あなたは神でなく人間のことを思って言っている」と。信仰が未熟なので実生活について行かないのです。すぐにそのあとで主は、「私のあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われました。でもペトロはそれができませんでした。キリストが十字架に架けられた時ペトロはキリストの事を3回も「知らない」と言って逃げてしまい、十字架を背負ってついて行こうとしませんでした。

 

こうしたことは教会の最初からの問題です。実際にはもっと一般的にあてはまる、人間の本性と言ってもよいかもしれません。幼稚園では今年、新卒の先生が二人入りましたが二人とも強く感じていることがあります。学校で幼児教育の勉強をしましたが、その考えや指示など、適切と思ったことは、頭でわかっていても実際に子供たちを目の前にして、習ったようにしようとしてもうまくいかないのです。習ったことは分かっていてもまだ身についていないからです。こういうことは経験を通して身についていくものです。

 

具体的なところで。信仰も、祈りは勿論大切です。聖書を読むことも重要です。信仰に関る勉強会に参加するのも大切ですが、それだけでは信仰は身につきません。日常生活の中での経験が重要なポイントです。この経験を通して信仰を身につけなければ信仰との遊離が生じます。

 

ある人は自分が怒りっぽいことが気になって、神に忍耐を与えて下さいと祈りました。ところがそのあとで、それまで滅多になかったことが生じたり、普段よりもしばしば嫌いな人に出会ったりして、前よりたびたび怒ってしまいました。それでこの人は神に「主よ、私は忍耐を求めたのにどうして与えてくださらないのですか」と不満を言いました。すると神は「お前が忍耐が欲しいと言ったから学ぶ機会をたくさん与えたのだ」と答えられました。

 

これは大事な鍵です。或る苦しみとか悩みを問題としてみると、乗り越えようとの思いが無ければそれほど信仰は身につきません。それを信仰を身につける機会として受け留めるならそこで成長があります。今日の箇所は特に十字架について従っていく場面です。今の平和な日本ではいわゆる殉教の危険性はありませんが、日常生活の中で機会があります。一番近いと感じるのは赦すことではないでしょうか。誰かにきついことを言われて心が傷ついたり、信頼していた人に裏切られたとか、期待を裏切られたとかいろいろな場面がありますが、そこで辛い思いをして苦しんで怒ってしまい、赦さなかったりしないでしょうか。主が赦しなさいと教えてもなかなか出来ないでいます。今回はその限りではない、とかいろいろ赦さない理由をつけることがあります。問題から逃げるために。

 

でもそれこそまさに信仰を身につける機会です。それを本気で受け止めるなら。キリストがこの機会を与えて下さったのです。主の言葉を身をもって経験を通して身につける機会です。そこで信仰が試されます。主は赦しなさいと勧めます。その主の教えの前で、正直に言えばそのとき私は赦したくないのです。

 

そこで自由が問われています。主に言われたことに従うか拒むか、逃げるか。自由が働きます。私たちは主を選ぶ必要があります。信仰を経験を通して学ぶ場合には生活経験の最中で主の言葉に耳を傾けて、「よし、主に教えられたからこうする」とそれに聞き従うことを決心して選びます。そうすれば違ってきます。信仰を身につけることにもなります。

 

もうひとつ面白い現象があります。自分が気が進まない、できないと思ったこことでも「主よ、聞き従います」と決心すると主の力が働いて、できなかったことができてしまいます。これは重要な経験です。自分が主の力によって主の道を歩めるのだということを経験すると、そのあとでは苦しみに出遭ってもこれは主に近づく機会であると信仰の経験によってもっと積極的に主に近づけるようになります。主の恵みによるのだとわかり、それを主に願うなら、また恵みを受けます。するともっと積極的に取り組むことができます。そうして信仰の歩みがもっと力強く進みます。