年間第21主日 2021年8月22日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 ヨシュア記 24章1~2a、15~17、18b節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章21~32節

福音朗読 ヨハネによる福音書 6章60~69節

 

お話の要約

 先週は、聖母マリアの被昇天の祝いがありました。そのために、このヨハネによる福音書6章の朗読の箇所を読まなかったんです。今日の福音書では、弟子たちがつぶやいている感じから始まります。この福音書の導入のところにもありますが、イエスが語った「わたしの肉を食べ、血を飲むという言葉を人々は理解できずイエスにつまずく」。前回の箇所です。

 

確かに、わからないことはないと思います。おそらく人々は、キリストが自分の肉を食べるという話をしたら、まるでどこかの店で肉を買って焼いて食べるようなイメージがあったのではないかと思います。それならば結構いやです。血を飲むということであれば尚更だと思います。ユダヤ人は血を飲むことは、動物の血も含めて固く禁じられています。だから、かなり反感を買うような言い方です。でも、それは結局、人々の見方からの誤解、理解できないところです。そのことについて、キリストは後で指摘しています。こういうつぶやきに対してキリストは、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…」そこで文章は途中で終わるんですね。その続きは載っていないのです。どんな続きがあるのか、何を言おうとしているのか。実は、注釈を書く人にも様々な意見があるのです。自分なりに考えたら、こういうことかと思ったんです。「人の子がもといた所に上るのを見るならば、そのとき、あなたがたはどう思うだろうか」。いずれにしても、そこでキリストは確かに、自分が普通の人間ではないことを強調して、自分の言葉を人間の言葉の意味に受け止めないで、もっと誰がそれを言っているか、それを見て考えるように促しているのではないかと思います。

 

同じヨハネの福音書6章の中でキリストは何回か、ご自分が天から降って(くだって)来たと強調します。天から降って来た命のパン、生きたパン。そういう天から降って来た人の子、また上って行くという、そういうようなかたです。そして次の言葉も同じようなことを言っているのではないかと思います。「命を与えるのは ”霊” である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」。この霊と命の対照は、〈聖書と典礼〉の注釈にも説明があるのですが、人間的な見方それは肉のことですが、または神さまのほうから見る霊の理解の仕方。キリストが話した言葉は、神さまからの言葉で、聖霊による言葉と言ってもいいと思うのです。だから、その言葉は命になるのです。でも、やはり、その言葉をそういうふうに受け止めることはすごく大事です。だからその後、キリストは信じることについて話します。「しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる」。

 

信仰の問題ですね。でも、信仰というのは、特にここで強調しているのは、神さまのことを人間の思いで語らないで、神さまの言葉だから受け入れるという信仰の態度。それも、後の十二人に対する質問にも出るんです。そこでイエスは十二人に、弟子たちの多くは離れ去ったのですが、「あなたがたも離れて行きたいか」。十二人の反応を聞いて、自由を与えているんです。その意味ではイエスは強制なさいません。そこで、

”シモン・ペテロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」”

これはシモン・ペテロの信仰告白です。そこで信仰の大事な要素を示しているのです。確かにシモン・ペテロもキリストの言葉を理解できなかったと思います。どういうことなのか、わからなかったと思います。ただ、ほかの去って行った弟子たちと違って、誰がそれを言っているか、もっと見ました。結局、シモン・ペテロは信じるようになったから、自分がわからなくても、とにかくキリストの言葉だから本当だと。そういうことが信仰です。信仰は理に反するものではないです。理を超えているものです。そして、その超えているところに特に信仰の働きがもっとはっきり示されます。

 

今日の〈聖書と典礼〉の注釈にもあるように、このキリストの言葉は、わたしたちが聖体拝領前の信仰告白のときに、ミサの中で繰り返しています。これはマタイによる福音書からの引用も合わせているのですが、でも主にこの箇所からです。それは適切だと思います。ご聖体に対する信仰は、まさにこのような信仰のことです。わたしたちは、教会全体は、このご聖体を本当にキリストのからだ、キリストの血だと信じているのは、何の論理にも理屈にも証拠にもないものです。理を超えているものです。キリストがそうおっしゃったから、教会はそう信じます。キリストは真実、真に満ち、命であるから、キリストご自身は欺かれることもないし、欺くこともないのです。そういう意味では、信仰はキリストの言葉にかかっています。後で神秘はもうちょっとはっきりするようになりましたが、これはご聖体の制定前のことですから、何を指しているのか、キリストの最後の晩餐のことを受けて、弟子たちはある程度もっとわかったのです。でも、今でもわからないところは確かにあるのです。わたしたちが見る感覚的なところと、信仰が示しているところが違うのです。感覚的に、わたしたちが頂いている白い小さいパンは、変わらないのです。まったくそのまま見えるし、味も変わらないです。盃も、そこに入っている葡萄酒は、感覚的に変わらないです。同じものに、同じ味に残ります。でも、信仰の目で見れば、キリストの言葉だから、これは感覚的にとどまらないで、感覚的に見える姿のうちに本当のキリストのからだ、キリストの血があると。それが教会の信仰です。その信仰こそ、ご聖体を頂くために必要です。だから、教会は、聖体拝領の前に信仰告白をしています。説教の後でも全体の信仰告白をしますけれど、特に聖体拝領の前に、あらたに、特にこのご聖体に対する信仰告白をしています。そのことによってわたしたちの信仰が強まれば、それだけご聖体からの恵みももっと豊かになります。