年間第15主日 2021年7月11日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 アモス書 7章12~15節

第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~14節

福音朗読 マルコによる福音書 6章7~13節

 

お話の要約

今回は、キリストの宣教活動の一部としてキリストが弟子たちを宣教に遣わすところです。キリストご自身宣教活動を行ない、弟子たちを養成し、後で彼らを宣教に遣わします。これはキリストの生前の出来事です。弟子たちはそれを受け、特に聖霊降臨によってこれが始まりました。そしてそれは今日の教会でも続いています。

 

今の教会の宣教活動を振り返ってみましょう。最近、第五宣教司牧委員会があり、宣教活動に関する意見や関心について話し合いました。私は最近、宣教活動が力を失っているように感じます。どこの教会も大体同じぐらいと思いますが、私は大船教会に来て5年ほどたちますが、この間、結婚式、幼児洗礼、成人洗礼は指折りするくらいしかありませんでした。葬式は結構あります。それで教会の将来は、新しく洗礼を受ける人が少なく、次の世代に信仰を伝えるのはさらに難しくなっています。教会の構造からみれば、今、中心として教会の活動を経済的に背後から支えているのは大部分が70歳以上の人たちです。それを考えると教会は20年30年先はどうなるかと、十分考えるところです。信徒の間でそういう心配もあります。

 

ではどうしたらよいかということで、これはなかなか難しい問題です。ところで今日の朗読は参考になります。大事な教え、教訓があります。キリストは弟子たちを遣わすにあたっていろいろなことを禁じます。杖は一本はいいけれど、パンも袋も金も下着も2枚もっていってはいけない、旅をして或る家に入ったら、そこから旅立つまでその家に留まりなさいと。これは主に全く頼るようと教えているのです。宣教に出かけるとき必要な物すべてではなく、主に信頼して最低限のもので出かけるように、そういう心を教えています。

 

今の教会は問題に関していろいろ計画して話し合って、何かの活動をしましょうと先に考えがちです。活動も必要ですが、私たちだけの思いと力で福音宣教は成り立ちません。キリストは弟子たちを遣わすにあたって、権能を授けました。汚れた霊に対する権能、病気を癒す権能など。そういう主の力をまず求めるべきだと思います。主の道を求めるべき。主が導いてそのために力をくださるはずです。それは主の恵みによって効果があります。

 

 これは第二朗読に示されています。パウロは主に対する感謝と賛美と書いています。主の満ち溢れる豊かな恵みを称えて主の愛を賛美します。神の救いの計画、世の初めから計画して下さった救いと愛の計画。その中に私たちを選んで下さったのです。そして、キリストを通して罪の赦しを与え、ご自分の子にしようとしてくださいました。愛と永遠のいのちを約束し、その約束したいのちを受け継ぐ者としてくださいました。

 

愛と慈しみにみちた主の心。そのことを中心にするのが大切です。主のご計画、教会がどうなるかと心配しがちですが、それよりまず、主は何を与えたいと望んでおられるかが大切です。例えば大船教会は組織として、場所として続くかどうか、よりも、どちらかというと最終的にはそれよりもっと大事なのは主の救いのご計画です。共同体として主の教えを心にとめるべきです。主は言われました。自分の命を救おうとする者はそれを失うが、私のために命を失う者はそれを得ると。共同体としても小教区としても同じです。共同体そのものの命を救おうとすればそれを失うが、主のためにそれを失うならそれを得ます。言い換えれば、教会を維持するために人を集めようとするのは主のみ心にかないません。むしろ主の偉大な計画を皆に伝えようとするなら主が中心ですからそれによって人が集まります。何を第一にしているか、と言うことです。優先順位というところです。パウロが言っている主のご計画は愛の計画でした。主なる神は人間を愛をもって命のためにつくられました。主なる神の愛の内に永遠の喜びの内に生きるように。そのために人間をつくられました。実際に人間は幸せを求めています。心の奥底にそれを求めています。心の奥底に、無意識ですが潜在的にあるのです。それを極めていくとそこに行きます。無限の幸せを求めていますが、それは主においてのみ実現します。人間の心にある望みに対して主の計画をもっと力強く告げることができたら人はそれを求めてきます。それが福音宣教です。人に押し付けるのではなく人を惹きつけるものです。

 

ですから私たちも共同体としてそういう共同体になる必要があります。大船教会には「ともに祈り、ともに歩もう」と言う合言葉があります。これには目的があります。神の国に向かって信仰の歩を共にすることです。その中では宣教する共同体になることも目指しています。結局二つは一つになります。共同体としてパウロが言う感謝と賛美にもっと心から参加することができるならパウロの心に似た者となるでしょう。共同体がそうなれば私たちを通して主が働き、主のために宣教する者になります。弟子たちのように主のために宣教する者になります。周りの人に神の愛を伝える共同体になります。