受難の主日(枝の主日) 2021年3月28日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節

第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節

福音朗読 マルコによる福音書 14章1~15章47節

 

<お話の要約>

今日、受難の主日が終わって聖週間に入ります。

聖週間の間、教会では、受難の箇所を今日と、聖金曜日に2回読まれます。

その中で一つの箇所だけ取り上げて話したいと思います。

キリストが十字架に架けられた時に大声で叫ばれた言葉についてです。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」

この言葉は不思議です。神の子であるキリストが、神に見捨てられることはありえないのではないか?と思います。神性において、決して見捨てられていないのです。人間性においては、神の子が人となられたとしても、人間性として残るので、人間が感じることを全部感じられます。ではここで何を感じておられるかの説明はないのですが、私が思うには、キリストは私たちの罪を背負ってくださった時、罪人の心の苦しみも背負ったのではないかという気がします。罪人は自ら神様から離れていくのですけれど、その結果は、神様に見捨てられたような気持ちにもなります。

 

私たち人間の心の奥底、一番深いところに、基本的な大きな望みがあります。それは神様を見たいという望みです。普段はその望みを抑圧しています。潜在意識のうちに閉じ込めて、触れようとも、考えようともしないので、気づきもしないですが、心の奥底に潜んでいます。人間の深い望みとして、それが叶えられるかどうかによって、人間の幸せか苦しみかが決定的に決まります。地獄に落ちた人の苦しみの一番大きな苦しみがこれだと思います。地獄には火があるとか他の苦しみがあると言われていますが、何よりも神様を永遠に見ることができない、神様から完全に離れてしまった、罪人にとっては神様から見捨てられてしまったような、そういうような苦しみが一番大きいのです。一番深い望みが叶えられないところでは、人間の人生だけではなく、人間の存在そのものが無意味になってしまう苦しみです。キリストは私たちの罪を負ったと同時に、心の苦しみも負いました。むしろその方が大きかったのではないかと思うのです。肉体的な苦しみは、想像もつかないほど苦しんだと思いますが、それより人間が神様から離れた心の苦しみをキリストが私たちのために負ってくださいました。そうして、私たちに許しを、私たちが神様に立ち返る、神様を見る恵みを与えてくださったのです。これが第2朗読にあるように、キリストのへりくだりのところです。

 

詩編の言葉は解釈にもあるように、22編の引用です。22編の先のところにはこのようにも書かれています。

「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。」

そういうような心になって、苦しんでいる詩編の作者は、イエスのことをさしています。聖パウロが言っているように、キリストはご自分を十字架の死に至るまで、無にしました。聖トマスはそのことを説明して、キリストが神の子でありながら人間となられた時は、人間性のうちにご自分の神性を隠しておられます。しかし、十字架に架けられた時は、人間性まで隠しておられます。もう、虫けら、人とは言えない、人とも思わないような惨めな姿になって、そこまでへりくだって私たちのために苦しまれました。

それは、命への道を開くためです。

 

キリストの受難は聖週間の中で、次の復活につないでいきます。復活があるからこそ受難の意味がわかります。私たちも人性の苦しみは、そのあとの恵みによってその意味もわかります。どうしても人間は苦しみを避けて通ろうとする傾向があります。苦しみを避けて通ろうとするなら、喜びも幸せも避けて通ろうとすることになります。キリストと同じように私たちが、完全な幸せ、完全に喜びに至る道は、一つしかありません。

 

それは、キリストが歩まれた十字架の道です