四旬節第3主日 2021年3月7日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 出エジプト記 20章1~17節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章22~25節

福音朗読 ヨハネによる福音書 2章13~25節

 

お話の要約

きょうは四旬節第3主日で、福音書はキリストが神殿から商売人を追い出す場面です。この季節に、私たちは回心に努めながらこの記事の中にキリストが下さるしるしを読み取りつつ主の死と復活を祝う準備をしています。キリストはユダヤ人たちに「この神殿を壊してみよ、三日で建て直して見せる」と言われました。これはご自分のからだを指してのことでした。比喩的にみると、神殿は祈りの場、神の家であるべきですからそれに反するものを除くという意味があると考えることができます。これを心の問題に置き換えて考えてみると、キリストの行動は四旬節を通して私たちの心から神に邪魔するものを追い出すことです。そういうことを求めて過ごすのは良いと思います。

 

もう一つの教訓は、弟子たちの反応にあります。ここには弟子たちが「思い出した」という表現が2度も出てきます。キリストが商売人たちを追い出したときの行動を見て弟子たちは「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くした」(詩編 88)という詩編を思い出しました。弟子たちはずっと前から知っていたこの箇所をキリストの行動を見て思い出したのです。思い出したということはこのキリストの言葉との関連に気づき、キリストの行動は聖書の言葉の実現であったと理解するようになったということです。さらに、思い出すと同時にもっと深い意味を悟る心の動きもありました。

 

当時は弟子たちもそれがよく分かりませんでしたが、こう言われたことを後に思い出しました。ユダヤ人たちは分からなかったでしょうが、弟子たちは神殿とはキリストの体のことだったと、イエスが死者の中から復活された時にこのことを思い出しました。それで聖書とキリストのことばを信じました。キリストの言葉と聖書の関連個所の意味を悟ったのです。キリスト者の生活においてそのように思い出すことはとても重要です。弟子たちはキリストの行動をみて聖書の言葉を思い出しただけではなく、キリストをより深く理解するようになりました。

 

記憶には私たちを形成する役割もあります。今の自分は過去があるからで、それがなければ自分が何者であるかわかりません。アルツハイマーや認知症になると忘れがひどいだけでなく自分のこともわからなくなります。そうなると自分のidentityはどうなるのか、わからなくなってしまいます。人生の中で誰でも経験しますが、その時にはわからなかったけれど何年か経った今それを思い出し、今の現実の出来事に出会って、そのことの役割や意味を悟り教訓になることがあります。

 

キリスト者としても同じです。信仰の歩みの中で危ないことはキリストのこと、神秘を忘れるということです。私は、もしかすると新しいことを学ぶより自分が知っていることを思い出すのはもっと大切ではないかと思ったこともあります。今まで神がしてくださったこと、自分の人生の中で神の恵みを頂いたことなど、自分の経験を思い出してみるとその意味がわかり、成長すると思います。

 

教会全体もそうです。例えば、教会としての一番中心的な祈りであるミサは記念することです。聖変化のときにキリストの言葉、「これを記念としてとしておこないなさい」というとき、思い浮かべるのは簡単なことです。意味を悟り、その考えに気づく心の動きは大切です。

 

同じ祈りの続きで主の死と復活を記念して、「主よ、あなたの教会を思いおこして下さい」と祈ります。神には忘れることはありません。神が人間のことを思い起こすとは神が助けて下さるという意味です。神が恵みを示すということは神が私を思い起こしてくださるという意味です。しかし神の場合にはもっと深い意味があります。意味を理解することは恵みと救いを意味しています。恵みを与える神、私たちの救いを現わしています。

 

その意味で四旬節の間、教会としては聖書を通して救いの歴史を振りかえって準備しています。今日の朗読を見ると、十戒が与えられました。教会は神がなさったすべての救いの業を思い出してその意味を深く悟るように準備します。復活祭の徹夜では沢山の朗読をとおして救いの歴史を思い出しています。それを思い出すことはとても重要です。それは神に感謝し、賛美する動機になりますから新たな恵みもこれに加わります。ここで「思い起こす」ことの意味がもっと深くわかります。信仰が新たにされ、復活祭の祝いをもって真の信仰の歩みになっていきます。