年間第6主日 2021年2月14日

先に下記リンク先の聖書箇所を読み、黙想してから動画をご視聴いただくことをお勧めします。

 

朗読箇所のテキスト(日ごとの福音)

 

第1朗読 創世記 3章16~19節

第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節

福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節

 

お話の要約

今年に入ってから教会はずっとマルコ福音書を読んでいます。主の福音宣教の最初の活動では特に病人を癒す場面が多く記されています。ここに出てくる人の病は「聖書と典礼」の注釈にもあるように、ハンセン病に近いものですが、一つとくに注目に値することは、この病気はいろいろな病気の中でも特別に恐ろしい、特別につらい病気だということです。

 

律法によればそういう重い病気の人は村の外に住み、人と接しないように隠れて、皆から離れて住まなければなりませんでした。社会から排斥されているような生き方を強いられて、おまけに外に出る時にはいつも「私は穢れた者です!」と呼ばわりながら歩くように命令されていました。その意味でも他の病気に比べるとはるかに精神的につらい病気でした。どの病気でもつらいものがありますが、特にこの病気はつらいものでした。当時の世界的背景を考えてもそうでした。実はその病気の人たちにはほかの人たちに近づかないようにという掟もありましたから、この人がどこまでイエスに近づいたかはわかりませんが、少なくとも話せる距離には近づいたのでしょう。

 

そこでキリストの活動の一つの側面、憐れみが現れます。キリストは特に辛い立場の人をそういう特別の配慮をもって憐れんでくださいました。もう一つはその人自身の態度に対するキリストの反応です。この人はイエスの所に来て膝まずいて願いました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。これは興味深い言葉です。直訳すれば、あなたがお望みなら、ということで、願ってはいますが直接には願っていません。「癒してください」でなくむしろ或る意味で信仰告白になっています。「御心ならお出来になります」というのは、あなたはそれがお出来になりますということです。主の力を信頼する信仰告白です。願いの中に信仰告白がふくまれていて、その態度はキリストに対する尊敬、怖れ敬う心、そのお力を認めている、というものです。自分としてはこうしてくださいと言えないほどの信頼と尊敬です。信頼して、キリストを望み、あなたが望むなら出来ます、とキリストへの望みに願いをこめています。キリストはその態度に対して、憐れんで、「私は望む」とお答えになりました。

 

キリストご自身はすべての人の救いのために来られましたが、福音書を読むと、キリストが奇跡をおこなわれるとき人がとくに信仰・信頼を表すときにはもっと進んで応えられます。主は私たちにそういう態度を求めておられます。主を利用しようとするところがあるかも知れないからです。「困ったときの神頼み」で、今困っているから助けてほしいが、後は自分なりに生きる、という主に対する態度では主を利用することになり、主はそれを決して喜ばれません。

 

これは私たちにとっても教訓になります。教会は宣教の働きの中で信頼を強調しておられます。特に信頼を持って、根気づよく、忍耐して祈り求めることをキリストは教えの中で重要なものとしておられます。これは人間の態度も問われるところです。アゥグスチヌスもコメントしています。なぜ私たちの願いがかなえられないのかといえば、ひとつには人は時どき間違ったたことを求めてしまうからです。何が良いのかわからず、害になるものを祈ることがあります。そう言う時主は人に対する愛のために人が願うものを与えません。または間違った態度での「困った時の神頼み」もあります。また私たちの生活態度によります。回心しようとしない態度で願ってもかなえられません。主を利用しようとするのですから。 

 

自分の祈り方を反省してみましょう。キリストは確かに、必要なもののために祈りなさいと教えておられます。「願いなさい、求めなさい、そうすれば与えられる」と。ですから、何のためにどんな態度で求めるかも振り返って考えるといいでしょう。こうしてもっと主に喜ばれるような生き方をすることになり、主は喜んで私たちの願いをかなえてくださるでしょう。